「アルブレヒト1世 (バイエルン公)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
image+
編集の要約なし
1行目:
[[fileファイル:Albert de Bavière.png|right|thumb|200px|アルブレヒト1世]]
'''アルブレヒト1世'''(''Albert(Albrecht I''., [[1336年]][[7月25日]] - [[1404年]][[12月13日]])は[[14世紀]]の[[バイエルン大公|下バイエルン公]]。[[エノー伯]]、[[ホラント伯]]、[[ゼーラント伯]]でもあった。父は[[神聖ローマ皇帝]][[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]、母は[[エノー伯]]、[[ホラント伯]]、[[ゼーラント伯]]相続人[[マルガレーテ・フォン・ホラント|マルガレーテ]]。[[ルートヴィヒ5世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ5世]]、[[シュテファン2世 (バイエルン公)|シュテファン2世]]は異母兄、[[ルートヴィヒ6世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ6世]]、[[ヴィルヘルム1世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム1世]]は同母兄、[[オットー5世 (バイエルン公)|オットー5世]]は同母弟である
 
[[1347年]]に父が没し、[[1349年]]に遺領が分割された時、上バイエルンは[[ルートヴィヒ5世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ5世]]、[[ルートヴィヒ6世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ6世]]、[[オットー5世 (バイエルン公)|オットー5世]]が、下バイエルンは[[シュテファン2世 (バイエルン公)|シュテファン2世]]、[[ヴィルヘルム1世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム1世]]、アルブレヒト1世がそれぞれ相続した。[[1353年]]には下バイエルンは更に分割、シュテファン2世は[[ランツフート]]を、ヴィルヘルム1世とアルブレヒト1世は[[シュトラウビング]]の公爵となっを相続した。
 
[[1356年]]に兄ヴィルヘルム1世が母の死によりエノー、ホラント、ゼーラントを相続したが、間もなく兄が発狂した為、[[1358年]]に摂政として政務を代行、事実上[[ネーデルラント]]の単独統治者となった。ヴィルヘルム1世は[[1389年]]に死ぬまで幽閉され、名目上の共同統治者に置かれた。この間、アルブレヒト1世は子供達を各王族と縁組させているが、3女[[マルグリット・ド・バヴィエール|マルガレーテ]]が生んだ孫[[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]](善良公]]が最終的にエノー、ホラント、ゼーラントを獲得した。
 
しかし、愛人が政治に介入し、それに乗じてタラ派(Kabeljauws)と呼ばれる党派が実権を握った為、反対派のフック派(Hoeks)が長男の[[ヴィルヘルム2世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム]]と結んでアルブレヒト1世と対立、内乱が発生してしまった。[[1397年]]には下バイエルン=シュトラウビングの共同統治者であった次男の[[アルブレヒト2世 (バイエルン公)|アルブレヒト2世]]に先立たれている。
 
[[1404年]]に死去してヴィルヘルムが後を継いだ為、内乱は一旦収まったが、[[1417年]]に彼が一人娘[[ジャクリーヌ・ド・エノー|ジャクリーヌ]]だけを残して死去すると[[リエージュ司教領|リエージュ司教]]だった3[[ヨハン3世 (バイエルン公)|ヨハン]]とジャクリーヌが相続を巡って争い、タラ派とフック派の内乱も再燃、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]]フィリップ善良公も介入、内乱を通して[[ヴァロワ=ブルゴーニュ家|ブルゴーニュ家]]がネーデルラントに勢威を拡大していった。
 
== 家族 ==