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[[1955年]]には[[中村広]]厩舎に移籍し、次第に頭角を現した。[[1956年]]に[[読売カップ|読売カップ・秋]]をミスキヨフクで制して重賞初勝利を挙げると、[[1958年]]にはトパーズで[[京王杯オータムハンデキャップ]]を勝利、年間38勝を挙げて関東リーディング5位になるなど、リーディング上位に名を連ねる一流騎手に成長した。
 
山岡の騎乗馬で代表格なのは[[オンスロート (競走馬)|オンスロート]]である。[[大井競馬場]]所属時に17勝を挙げ、[[天皇賞]]制覇を目指して[[1961年]]秋に中村広厩舎に移籍し、山岡が[[主戦騎手]]として騎乗した。同年秋の天皇賞では、同じく大井出身の[[タカマガハラ]]の2着に、また有馬記念では[[ホマレボシ]]の3着となったが、僅か10日後に出走した[[金杯]]を制すると、[[天皇賞|春の天皇賞]]では[[シーザー]]以下を抑えて勝利し、山岡自身初の[[八大競走]]制覇となった。また[[有馬記念]]でも、タカマガハラを下して、前年の雪辱を果たした。
 
山岡の騎乗法は、いわゆる[[モンキー乗り]]と呼ばれる騎乗法ではあったが、馬を追うときの姿勢が、当時の騎手はモンキー乗りであっても「天神乗り」の名残りを留めた、どちらかと言えば姿勢の高い追い方が主流だったのに対し、山岡は、可能な限り馬の背中に上体を近づけて、姿勢を変えないまま追うという、どちらかと言えばアメリカの騎手の騎乗法に近い乗り方をしていた。当時の競走の映像を見ると、一目瞭然で他の騎手との違いが判るほどの独特のスタイルであった。