「静岡大空襲」の版間の差分

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[[Image:Shizuoka after the 1945 air raid.JPG|thumb|300px|空襲後の静岡]]
'''静岡大空襲'''(しずおかだいくうしゅう)は、[[太平洋戦争]]末期の昭和20年([[1945年]])[[6月19日]]深夜から[[6月20日|20日]]未明にかけて、[[アメリカ軍]]により[[静岡市]]街地が受けた[[空襲]]である。
 
[[マリアナ諸島]]から飛びったアメリカ軍第314航空団の[[B-29_(航空機)|B-29]]戦略爆撃機137機<ref>基地発進137機、攻撃123機の説あり。アメリカ軍の爆撃報告書に基づく『ドキュメント 静岡の空襲』(静岡平和資料センター[http://homepage2.nifty.com/shizuoka-heiwa/main.html]2008年4月21日閲覧による)</ref>は[[伊豆半島]][[波勝崎]]付近から本土上空に侵入、伊豆半島上空を北上し、[[富士山]]手前上空で旋回し[[静岡市]]上空に向かうが、一旦静岡市街上空を通過し、[[御前崎]]上空から再び静岡市街上空へと向かった。3時間余りの爆撃で投下された焼夷弾は13,211発<ref>アメリカ軍の爆撃報告書に基づく『ドキュメント 静岡の空襲』(静岡平和資料センター[http://homepage2.nifty.com/shizuoka-heiwa/main.html]2008年4月21日閲覧による)</ref>、被害は死者1,952名余、負傷者5,000名余、焼失戸数26,891戸に上った<ref>静岡市警察沿革誌(静岡平和資料センター[http://homepage2.nifty.com/shizuoka-heiwa/main.html]2008年4月21日閲覧による)</ref>。
 
 
== 経緯 ==
兵器等製造事業特別助成法(昭和17年(1942年)2月13日法律第8号)に基づき、「住友金属プロペラ工場」(高松地区)および「三菱発動機製作所」(小鹿地区)の二つの官設民営軍用機関連工場の建設が進められた。この建設工事中に[[弥生時代]]の[[登呂遺跡]]が発見され、[[伊東忠太]]ほかにより短期間の緊急発掘調査が行われたものの、十分な調査を経ずに工事が再開され<ref>静岡県『静岡県の百年』、1968年(静岡済生会総合病院詳細年表[http://oshimamd.sakura.ne.jp/saiseikai/p1tops33.htm]2008年4月21日閲覧による)</ref>、翌昭和18年(1943年)には生産が開始された。
 
昭和20年(1945年)3月に[[東京大空襲]](10日)、[[名古屋大空襲]](12日)、[[大阪大空襲]](13日)、[[神戸大空襲]](17日)と日本の大都市を破壊したアメリカ軍は、その後地方主要都市に目標を移した。アメリカ軍資料によると選定は昭和15年(1940年)国勢調査の人口に基づくものであり、静岡市は15番目であった。<ref>静岡平和資料センター[http://homepage2.nifty.com/shizuoka-heiwa/main.html]『常設展』ページより(2008年4月21日閲覧)</ref>。同年4月7日の空襲により、住友金属および三菱発動機の両軍需工場は機能を停止していた<ref>篠田信夫「静岡済生会病院10年のあゆみ」(「静岡済生会病院10周年記念誌」所収)(静岡済生会総合病院詳細年表[http://oshimamd.sakura.ne.jp/saiseikai/p1tops33.htm]2008年4月21日閲覧による)</ref>。
 
空襲時、[[西伊豆]]一帯や[[沼津市]]、[[富士市]]からは[[静岡市街]]が真っ赤に燃えているのが解ったと云う。
また、山を挟んだ[[榛原郡|榛原]]地域などからも[[静岡市街]]上空が真っ赤になっているのが見えたと云う。
空襲の後、丸焼けになった静岡市街に米軍機が飛んできて、「早く降伏すれば贅沢ができる」の文字と、ごちそう御馳走の写真が刷られたビラ(伝単)をばらいた。
[[B29]]爆撃機は、[[富士山]]を目標に本土へ飛来してくるので、[[静岡県]]特に[[駿河湾]]沿岸域は、警戒警報や空襲警報がひっきりなしに鳴ったという。また、[[空襲]]以外にも駿河湾に進入した米軍艦の艦載機グラマンが、数機編隊で次々と駿河湾沿岸地域へ飛来し、機銃掃射や波状攻撃を行った。工場や港は勿論、農作業中の人達も狙われ、生産活動は停止。多くの市民が犠牲になったにもかかわらず、軍の命令で被害情報はすべて秘密とされた。
 
== 脚注 ==