「悼公 (晋)」の版間の差分

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[[欒書]]と[[荀偃]] によって[[厲公 (晋)|厲公]]が殺されると、晋に迎えられて君主となった。
[[文公 (晋)|文公]]の治世を理想とし、[[韓厥]]や[[智罃]]を正卿に、[[魏絳]]を中軍司馬に、[[叔向]]を世子の彪(後の[[平公 (晋)|平公]])の傅とする等、賢者を任用し、内治を整え、諸侯と会盟し、[[狄]]と和を結ぶなど、[[鄢陵の戦い]]以来晋に傾いていた覇権を磐石なものにしたが、29歳の若さで夭折した。
 
晋の最後の名君と謳われたが、悼公の時代は[[鄭]]や[[楚 (春秋)|楚]]、[[秦]]などとの戦いが続き戦果は芳しくなく、国内では王室の力が弱まり大夫や貴族たちの力が増大した。
 
{{先代次代|[[晋 (春秋)|晋]]の君主|第2830代:前573年 - 前559年|[[厲公 (晋)|厲公]]|[[平公 (晋)|平公]]}}
 
{{DEFAULTSORT:とうこう}}