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'''山名 誠通'''(やまな のぶみち、
[[享禄]]元年([[1528年]])に宗家である但馬山名氏の[[山名誠豊]]が没し、[[山名祐豊|祐豊]]が跡を継ぐが、やがて誠通は祐豊と対立関係を深めていくようになる。
天文13年([[1544年]])頃、[[出雲国|出雲]]の[[尼子晴久]]より[[偏諱]]を受け名を「久通」と改名した。これは尼子氏への従属を表すと共に、その援助を期待しての行動と思われる。
天文14年([[1545年]])には[[鳥取城]]を築城し、祐豊への備えとするなど守りを固めた。しかし
久通(誠通)亡き後の因幡守護は、正式には天文21年([[1552年]])に[[尼子晴久]]が幕府より任じられたが、これと対抗するように、祐豊の弟である[[山名豊定|豊定]]が但馬山名氏を後ろ盾として因幡へ勢力を扶植し、因幡守護的な地位におさまったものの、その後[[伯耆国|伯耆]]より来襲する晴久は久通(誠通)の遺児である豊成を支援して度々争っており、山名氏と尼子氏の対立は永禄年間まで続く。その豊成は[[鹿野城]]にあって因幡の要所を押さえながらも晴久の死去により尼子氏の支援は無くなり、布勢屋形に反旗を翻した[[武田高信]]によって[[永禄]]6年([[1563年]])に毒殺され、次男・弥次郎も[[高草郡]]立見峠で武田勢に討たれ、久通(誠通)系の山名氏は絶家した。
== 山名誠通に関する異説 ==
*通説によると、鳥取城は
*前記『申の歳崩れ』に相当する合戦については、当時の古文書には記録されていない。また山名誠通は確実な文書には天文15年([[1546年]])を最後に登場しない。加えて、誠通の家臣とされた武田山城守も但馬山名氏に通じていたことを裏付ける文書も発見されている。したがって、山名誠通は
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