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ライン宮中伯、後のプファルツ選帝侯領神聖ローマ帝国の歴史的領域の内、宮中伯の行政下に置かれた宮中伯領のことを指す。1356年以降は選帝侯 として仕えることになった。

プファルツ選帝侯領は後年にライン・プファルツと知られる地区よりも、ライン川西側一帯、現ドイツラインラント=プファルツ州プファルツ地区及びフランスアルザス地域圏1418年から1766年まではセルツ管轄領)に遥かに多くの領域を有していた。プファルツ選帝侯領には同時にハイデルベルクマンハイムを含む ライン川東側一帯も所有していた。

歴史

ロタリンギア(ロートリンゲン宮中伯)

宮中伯領は10世紀に存在したロタリンギアロートリンゲン)宮中伯から派生した。11世紀の間、宮中伯領はライン川両側一体を統治した エッツォーネン家によって支配された。これ等の領域はケルンボン 一帯に中心を置いていたが、南方のモーゼルナヘ川に勢力を伸ばした。領域の最南端がアルセイ付近であった[1]

初期歴史

最後のエッツォーネン家の宮中伯死後にロタリンギア宮中伯ヘルマン2世が統治した10851086年/6年頃から宮中伯領はロタリンギアにおける軍事的重要性を失った。宮中伯の領土的権威はライン川一帯のヘルマン2世の宮廷ではライン宮中伯と呼ばれるほど減っていった。

最初のライン地方の宮中伯の世襲は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世赤髭王の弟であるコンラートになされた。この領域と結び付いた世襲の官職はフランケン地方とラインランド地方を掌握したホーエンシュタウフェン家によって始められた(ホーエンシュタウフェン家の分家はシュヴァーベン地方やフランシュ=コンテ地域圏等を受け継いだ)。宮中伯領の大部分は神聖ローマ帝国の祖先であるフランク帝国の領域であり、残りはコンラートが母方の祖先であるザールブリュッケンから受け継いだものであった。これらの背景が何世紀にも渡る上及びライン=プファルツの構成要素だと説明される。

1195年に宮中伯領はシュタウフェン家の相続人であるアグネスと結婚したヴェルフ家に渡った。13世紀初頭にヴェルフ家の相続人であるアグネスと結婚したバイエルン公国ヴィッテルスバッハ家バイエルン公であると同時にバイエルン宮中伯でもあった)に全宮中伯領が渡った。

後に1294年上バイエルン公ルートヴィヒ2世の相続人間による領土分割の最中にヴィッテルスバッハ家の長子の系統がライン・プファルツとアムベルグ周辺に中心を置くバイエルンの“ノルガン”(バイエルン北部のダヌブ川)領域を獲得した。この統治が政治的にライン・プファルツと結び付けられたことで上プファルツ(オーバープファルツという名称はライン一帯の下プファルツに対する形で共通のものとなる。

1329年パヴィア条約でルートヴィヒ2世の息子である神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世はプファルツを甥のルドルフ2世ループレヒト1世の許に回復させた。

選帝侯

プファルツ金印勅書選帝侯の一つとして認識され、世襲の官職である帝国・Erztruchseßとフランケン、シュヴァーベン、ライン、南ドイツ帝国代理を授けられた。この時からライン宮中伯はプファルツ選帝侯として知られるようになった。

一族の異なる系統間で領域の分割が行われたことで、16世紀初頭までにプファルツ系ヴィッテルスバッハ家の主要な系統は低プファルツのジンメルンカイザースラウテルンツヴァイブリュッケンを、上プファルツのノイブルク・アン・デア・ドナウズルツバッハを支配した。プファルツ選帝侯は現在のハイデルベルクに拠点を置き、1530年頃にはルター派1550年頃にはカルヴァン派を採用した。

直系は1559年に絶え、カルヴァン派を奉ずるプファルツ=ジンメルン家フリードリヒ3世が継承したことでプファルツはヨーロッパにおけるカルヴァン派の中心となりオランダフランス両国で反乱を起こすカルヴァン教徒の支援者となった。

三十年戦争

1619年フリードリヒ5世ボヘミアプロテスタントからボヘミア王位を授けれた。フリードリヒ5世は間も無く1620年白山の戦いで神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に敗北し、スペインとバイエルンの軍隊によってプファルツそのものが占領された。フリードリヒ5世は、そのボヘミア統治がに限られていたことから「冬王」と呼ばれるに至った。 1623年にフリードリヒ5世は廃位された。フリードリヒ5世の領地と選帝侯の地位はヴィッテルスバッハ家嫡流であるバイエルン公マクシミリアン1世に授けられた。プファルツ選帝侯は形式上であるが、マクシミリアン1世はバイエルン選帝侯として知られている。1648年以降はマクシミリアン1世はバイエルンと上プファルツのみを支配したが、選帝侯としての体面とプファルツ選帝侯の長の地位は保持した。

1648年までのウェストファリア条約までにフリードリヒ5世の息子であるカール1世ルートヴィヒは低プファルツを回復し、"Elector Palatine"と呼ばれる“新しい称号”を授けられたが、他の選帝侯よりも順位は低いものであった。

後年

1685年にジンメルン系は断絶し、カトリックであるプファルツ=ノイブルク公(兼ユリック及びベルク公フィリップ・ヴィルヘルムが継承した。

1720年にプファルツの首都はハイデルベルクからマンハイムに移った。

1742年にプファルツはズルツバッハ系カール・テオドールが相続した。カール・テオドールは1777年の本家の断絶を受けてバイエルン選帝侯位も相続した。プファルツ選帝侯の称号と権威はバイエルン選帝侯に含まれることとなり、カール・テオドールとその後継者はバイエルン選帝侯を唯一の投票権及び優位権として保持した。彼等は“プファルツ選帝侯”の称号を引き続き保持した。

カール・テオドールの後継者であるツヴァイブリュッケン公(フランス国境地帯にある)マクシミリアン・ヨゼーフ1799年に全ヴィッテルスバッハ家領を唯一の統治者の許に集めた。プファルツはフランス革命戦争で消滅した。最初は1795年に左側がフランス革命政府によって占領・吸収されたことで、次は1803年バーデン辺境伯によって右側が併合されたことで。領邦としてのプファルツ選帝侯は消滅した。1806年の神聖ローマ帝国崩壊で全選帝侯はその地位を失った。

帝国崩壊後

1806年にバーデンは大公国に昇格し、マンハイムを含む嘗てのプファルツは新しい大公国となった。1814年から1815年ウィーン会議でプファルツの左側(嘗てのシュパイアー司教領のような他の統治者達によって拡大化された)はヴィッテルスバッハ家のもとに戻り、1816年に正式にバイエルン王国の一部となり、その時以来、この地方は主にプファルツとして知られるようになった。この地区は第二次世界大戦後までバイエルンの一部であり、大戦後には分割してプロイセン及びヘッセン=ダルムシュタットの旧領土の西側とともに新たにラインファルト=プファルツとなった。

紋章

 
1703年の全紋章[2]

1156年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世赤髭王の弟であるコンラートは宮中伯となった。ホーエンシュタウフェン家の古い紋章である唯一のライオンは宮中伯の紋章となった。婚姻政策により宮中伯の紋章はヴェルフ家や後のヴィッテルスバッハ家の紋章の盾面の四分の一となった[3]。選帝侯のとして言及されるバイエルンの紋章でも使われた。これは盾面の四分の一のライオンが拡張したことであり、バイエルンの紋章に1623年にバイエルン公マクシミリアン1世の地位が選帝侯に昇格したのと同時期に現れて使われた。宝珠は神聖ローマ帝国におけるArch-Steward の地位として表現されていた

関連項目

脚注

  1. ^ Kohnle, Armin (2005). “Mittelalterliche Grundlagen; Pfalzgraftenamt, Territorialentwicklung und Kurwürde” (German). Kleine Geschichte der Kurpfalz. Regionalgeschichte-fundiert und kompakt (First Edition ed.). Karlsruhe: G. Braun Buchverlag. pp. 17. ISBN 3-7650-8329-1 
  2. ^ Siebmacher, Johann (1703). Erneuertes und vermehrtes Wappenbuch.... Nürnberg: Adolph Johann Helmers. pp. Part I Table 2 
  3. ^ Diemer, Klaus (2007年). “Der Pfälzer Löwe”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。

外部リンク