「マルボルク城」の版間の差分

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ついに[[1410年]]、ドイツ騎士団に支配されていた地方のグルンヴァルト村とステンバルク村の間の草原で、ドイツ騎士団とポーランド・リトアニア連合軍の決戦が行われた。この'''[[グルンヴァルトの戦い]]'''(ドイツ名タンネンベルクの戦い)では[[ポーランド・リトアニア連合]]の軍が決定的勝利を収め、ドイツ騎士団総長ウルリッヒ・フォン・ユルギンゲンは合戦中に農民兵によって殺害され、ドイツ騎士団の高位の者もほとんどがここで命を落した。敗走した騎士団員は、ハインリッヒ・フォン・プラウエンを新総長とし、ドイツ騎士団の防衛の要であったマルボルク城(マリエンブルク城)に立て篭もった。
 
ポーランド・リトアニア連合軍はそのままマルボルク城を包囲し[[兵糧攻め]]を開始したが、まもなく秋となった。ポーランド・リトアニア側は作物の収穫のため農民兵を解散せざるを得なくなり、この攻城戦の決着はつかなかった。その後、[[第一次トルニ和約]]がポーランド・リトアニア連合とドイツ騎士団との間で締結され、ドイツ騎士団領はポーランド王の支配下に入った。マルボルク城はドイツ騎士団の居城として認められた。
 
=== 対立の再発と解決 ===
[[1440年]]、近隣の都市、貴族、僧侶が[[プロシア連合]]を結成、[[ポーランド王国]]と同盟して、ドイツ騎士団と対立した。[[1453年]]、ポーランド王国はドイツ騎士団と再び戦争状態に入った。[[1457年]]にはマルボルク城がポーランド王に明け渡された。ポーランド王国に抵抗したドイツ騎士団の残党は[[1460年]]までにはこの地方から一掃された。[[1466年]]にはポーランド王国がドイツ騎士団に最終的な勝利を収め、[[第二次トルニ和約]]によってこの地方一帯は全てポーランド王国の領土となった。
 
マルボルク城は[[1457年]]から[[1772年]][[8月5日]]の[[ポーランド分割|第一次ポーランド分割]]によってこの地域が[[プロイセン王国]]領になるまでの315年間、ポーランド王の所有する城となり、[[1460年]]ごろからは歴代のポーランド王がこの地方を訪問する際の居館として使われ、さかんに増改築された。
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