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[[ファイル:Raymond_IV_of_Toulouse.jpg|thumb|240px|トゥールーズ伯レーモン4世、19世紀の絵画より]]
'''レーモン4世'''(Raymond({{fr|Raymond IV de Toulouse}}, [[1052年]]頃 - [[1105年]])は、[[トゥールーズ伯]]、[[プロヴァンス]][[辺境伯]]で[[第1回十字軍]]の主要な指導者の1人。[[エルサレム]]占領後、[[トリポリ伯国|トリポリ伯]]領の基盤を創設した。'''レーモン・ド・サンジル'''とも。[[隻眼]]だったと言われている。
 
レーモンはトゥールーズ伯ギヨーム4世の弟だったが、ギヨーム4世が娘([[アキテーヌ公]][[ギヨーム9世 (アキテーヌ公)|ギヨーム9世]]の妃)を後継者に指名して亡くなった時、簒奪してトゥールーズ伯となった。このため、しばしば伯位を主張するアキテーヌ公の攻撃を受けた。
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アンティオキア攻略後、市内に兵を駐留させていたが、アンティオキア領有を主張するボエモンに追い出されてしまう。同じ南仏出身であった教皇使節[[アデマール・ド・モンテイユ‎|アデマール]]がアンティオキア陥落直後に死んだ後は、ボエモンとの対立を仲裁をする者もなくなり、ますます確執が深まる。レーモンはボエモンの領土拡張を妨げるために、独自の領土として[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]の所有を望んだが、兵達はエルサレム進撃を望んだため、一次中断し、[[ゴドフロワ・ド・ブイヨン|ゴドフロワ]]らと共にエルサレムを攻略した。
 
当初、彼が[[エルサレム王国|エルサレム王]]に推戴されたが、[[イエス・キリスト|キリスト]]が磔になった地で王と呼ばれたくないとしてこれを断った。このためゴドフロワが王に選ばれたが、ゴドフロワもまた王と呼ばれることを嫌い、聖墓守護者と称した。その後、[[アスカロン]]の戦い]]に加わったが、[[アシュケロン|アスカロン]]占領をめぐってゴドフロワと争ったため、これを攻略することができなかった。このため、十字軍と決別してコンスタンティノープルに滞在した。ここで[[1101年の十字軍]]と合流したが、[[アナトリア]]で敗れている。再びコンスタンティノープルに戻り、皇帝[[アレクシオス1世コムネノス]]の援助を受けてトリポリ攻略を目指したが、その途中で病死した。
 
甥であるギヨーム・ジュールダンが包囲を続けたが、その後ベルトランが取って代わり、1109年にトリポリを陥落させて[[トリポリ伯国]]を創設している。