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[[中国語]]は1[[音節]]が1つの[[形態素]](意味)を表す言語であり、そのような形態素の違いごとに異なる漢字を使われたため、文字数は非常に多くなった。これを分類する試みはまず古典解釈学となる[[訓詁学]]という分野において始められ、古典の中から同義字や類義字となる文字が集められ、[[漢代]]初期には『[[爾雅]]』という書物にまとめられた。字義を中心に漢字が分類され、その他に『[[釈名]]』や同義の方言字を集めた『[[方言 (書物)|方言]]』などが編まれた。
 
後漢になると、形訓と呼ばれる字形によって字義を解釈する方法論が確立され、[[許慎]]『[[説文解字]]』によって字形要素の[[偏旁]]を[[部首]]に立て、[[小篆]]の親字によって漢字分類された。説文解字は[[六書]]の理論に従ってそれぞれの漢字の成り立ちを説いた書であり、それとともに字の本義されている。[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]、[[梁 (南朝)|梁]]の[[顧野王]]が『[[玉篇]]』を編んでいる。これは、親字を[[隷書]]に改め、音韻を反切によって示していのが従来ともに異なる点であり、字義大幅に充実させした内容となって『[[玉篇]]』を編んでいる。
 
また[[後漢]]末期、[[漢詩|五言詩]]の[[中国文学|文学]]が確立され、魏晋南北朝時代を通じて[[平仄]]や[[押韻]]といった形式が整えられていった。そこで現れたのが[[韻母|韻]]によって漢字を分類した[[韻書]]であり、南北が統一された[[隋代]]には『[[切韻]]』が編まれ、以後の韻書の基準となった。
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[[遼]]・[[金 (王朝)|金]]・[[元 (王朝)|元]]といった異民族王朝に支配された時代、唐宋を通じて獲得された言語学的な知識が韻書にも字書にも盛り込まれた。[[五音]][[三十六字母]]といった[[声母]](頭子音)に関する[[韻図]]の知識が応用され、遼の『[[龍龕手鑑]]』、金の『[[五音篇海]]』では部首が[[子音]]・[[声調]]順に並べられ、韻書においても小韻の配列を子音・声調順にした『[[五音集韻]]』が編まれた。韻目数も併合され、206韻を106韻に減らした[[平水韻]]が行われるようになり、元の『[[中原音韻]]』は[[四声]]・[[韻母|韻]]順をやめて韻・四声順とし、『切韻』の古い音系ではなく、当時の音系に基づいた16韻部によって漢字を分類した。
 
また字書では伝統の540部の[[部首]]が併合されるようになった。分類・検字に便利なように『[[龍龕手鑑]]』(242部)では字源にかかわらず[[筆画]]を単なる記号とする部首の改良を行い、『[[五音篇海]]』(444部)およびそれに先行する『類玉篇海』では同部内を[[画数]]順に並べるといったことが行われた。画数順をさらに部首の分類にまで及ぼしたのが[[明]]の『[[字彙]]』(214部)であり、この方法は『[[正字通]]』『[[康熙字典]]』によって継承され、現代に至っている。なお『康熙字典』以降、字書は「字典」と呼ばれることが多くなった。
 
なお、『[[急就篇]]』『[[倉頡篇]]』などの初学者用の識字教科書、『[[隷辨]]』『[[甲骨文編]]』などの特殊な書体の字を集めた書物も字書に分類される。