「ダキア」の版間の差分

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知られている限りで最も古いゲタエ人の首領はドロミヘテ(Dromihete、又はDromichaetes)(紀元前300年頃)と伝わっており、当時は[[ドナウ川]]下流域が勢力圏であった。紀元前2世紀半ばのルボボステス(Rubobostes)より徐々に西進を始めて、紀元前2世紀末から紀元前1世紀始めに頃に現在の[[トランシルヴァニア]]地方に住んでいた[[ガリア人]]を追い出す形で移住したとされる。
 
その頃より徐々に文献にも「ダキア人」の名が出るようになり、例えば[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]の『[[ガリア戦記]]』にも記された。度重なるバスタルナエ族との抗争や、[[共和政ローマ]]との抗争(紀元前112年~前109年、紀元前79年)で疲弊したダキアを立て直したのは、[[ブレビスタ]]であった。ダキア全部族を統一したブレビスタは[[ストラボン]]によると20万とも称される兵を率いて、現在の[[ハンガリー]]に居住していた[[スコルディスキ族]]やボイイ族らを攻撃して、これら部族の領土を奪い取った。最終的にブレビスタは[[ティサ川]]流域からドナウ河畔、[[パンノニア]]地方や黒海沿岸にまで支配地を拡大した。同時期にガリア戦争を遂行していたカエサルは、終身独裁官となった後に[[パルティア]]や[[ゲルマニア]]と共にダキアのローマ属州化を目論んだものの、カエサルが暗殺されたことで免れた。
 
ブレビスタの死後は遺産相続ルールに従って王国は4つに分割された。その後継者の一人が[[コティソ]]([[:en:Cotiso]])であったが、ローマを脅かす力は最早失っていた。