「山内豊明」の版間の差分

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== 経歴 ==
寛永19年(1642年)、初代藩主[[山内忠直]]の次男として生まれる。兄豊定より3000石を分与される。[[延宝]]5年([[1677年]])、第2代藩主だった豊定が若死にし、その嫡子[[山内豊次|豊次]]も幼少だったため、弟に当たる豊明が養子として後を継いだ<ref>ただし、豊次の後見となり、家督を継いだのは[[貞享]]元年([[1684年]])のこととも言われている。</ref>。第5代将軍[[徳川綱吉]]の寵愛を受けて[[元禄]]2年([[1689年]])4月14日に[[奥詰]]衆となり、同年5月3日には[[若年寄]]に任じられるという異例の栄進を遂げている。ところが5月10日、豊明は病気により放心状態で目も見えず、耳も聞こえないとして若年寄辞職を綱吉に求めた。しかし、これが不敬として綱吉の怒りに触れ5月12日に江戸屋敷を召し上げられて謹慎を命じられる。
 
8月3日に謹慎は許されたが、代償として3万石の所領のうち2万7000石を没収され、残り3000石の寄合旗本としての存続を許された<ref>6月12日に豊次が夭折したので、没収されたとも(高知市広報「あかるいまち」1999年7月号・高知市歴史散歩・広谷喜十郎著)</ref>。ところが豊明は大名から寄合への格下げされることを潔しとせず、それに応じようとしなかったため、またも綱吉の怒りに触れて不敬罪で全所領を没収されて[[改易]]され、身柄は[[浜松藩]]青山氏に預けられることとなってしまっのである
 
元禄5年([[1692年]])6月2日に赦免され、その後、豊明は土佐藩内の小高坂にんだした。元禄17年(1704年)1月17日死去。享年63。
寛永19年(1642年)、初代藩主・[[山内忠直]]の次男として生まれる。兄豊定より3000石を分与される。[[延宝]]5年([[1677年]])、第2代藩主だった兄・豊定が若死にし、その嫡子・[[山内豊次|豊次]]も幼少だったため、弟に当たる豊明が養子として後を継いだ<ref>ただし、豊次の後見となり、家督を継いだのは[[貞享]]元年([[1684年]])のこととも言われている。</ref>。第5代将軍・[[徳川綱吉]]の寵愛を受けて[[元禄]]2年([[1689年]])4月14日に[[奥詰]]衆となり、同年5月3日には[[若年寄]]に任じられるという異例の栄進を遂げている。ところが5月10日、豊明は病気により放心状態で目も見えず、耳も聞こえないとして若年寄辞職を綱吉に求めた。しかし、これが不敬罪として綱吉の怒りに触れて5月12日に江戸屋敷を召し上げられて謹慎を命じられる。
 
== 備考 ==
8月3日に謹慎は許されたが、代償として3万石の所領のうち、2万7000石を没収され、残り3000石の寄合旗本としての存続を許された<ref>6月12日に豊次が夭折したので、没収されたとも(高知市広報「あかるいまち」1999年7月号・高知市歴史散歩・広谷喜十郎著)</ref>。ところが豊明は大名から寄合に格下げされることを潔しとせず、それに応じようとしなかったため、またも綱吉の怒りに触れて不敬罪で全所領を没収されて[[改易]]され、身柄は[[浜松藩]]青山氏に預けられることとなってしまったのである。
*豊明が短期間で若年寄辞任求めたのは、窮乏かったている藩財政が若年寄就任による出費でさらに苦しくな窮乏することを恐れたためと言わている。また、赦免後に豊明が住んだ地は、現在「大膳様町」という町名を残している。
 
元禄5年([[1692年]])6月2日に赦免され、その後、豊明は土佐藩内の小高坂に住んだ。元禄17年(1704年)1月17日に死去。享年63。
 
豊明が短期間で若年寄辞任を求めたのは、苦しかった藩財政が若年寄就任による出費でさらに苦しくなることを恐れたためと言われている。また、赦免後に豊明が住んだ地は、現在に「大膳様町」という町名を残している。
 
{{先代次代|[[土佐藩#中村藩|山内氏(中村藩3代)藩主]]|1677 - 1689|[[山内豊定]]|廃藩}}
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