「岩崎弥太郎」の版間の差分

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[[画像:Iwasaki Yataro Statue.jpg|thumb|200px|安芸市岩崎彌太郎像]]
 
'''岩崎 弥太郎'''<ref>存命当時、活字は「岩﨑」を用いており、本人の署名は「岩嵜」であった。三菱史料館展示室[http://www.meri.or.jp/shiryo/mer300j.htm]に展示中の史料による。一方、『平成新修 旧華族家系大成 上巻』[[霞会館]]、[[1996年]]刊では「岩崎」となっており、現在の岩崎家は「岩崎」の表記を用いていることがわかる。</ref>(いわさき やたろう、[[天保]]5年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]([[1835年]][[1月9日]]) - [[明治]]18年([[1885年]])[[2月7日]])は、[[日本]]の[[実業家]]で、[[三菱財閥]]の創業者。明治の動乱期に[[政商]]として巨利を得た最も有名な人物である。[[諱]]は'''敏'''(のち'''寛''')、[[雅号]]は'''東山'''。別名を土佐屋善兵衛
 
== 人物 ==
[[土佐勤王党]]の監視や脱藩士の探索などにも従事していた弥太郎は、吉田東洋が暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、同僚の[[井上佐一郎]]と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。しかし、必要な届出に不備があった事をとがめられ帰国した。この直後、大坂に残っていた井上は[[岡田以蔵]]らによって暗殺され、弥太郎は一命を取り留めた。弥太郎は、尊王攘夷派が勢いを増す京坂での捕縛業務の困難さから任務を放棄し、無断帰国したともいわれる。帰国後、弥太郎は長崎での藩費浪費の責任なども問われ、役職を辞した。
 
[[慶応]]3年([[1867年]])、後藤象二郎に藩の商務組織・'''[[土佐商会]]'''主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。[[坂本龍馬]]が脱藩の罪を許され、[[海援隊]]が土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。弥太郎と龍馬は不仲であったとも言われるが、弥太郎は(龍馬と酒を酌み交わすなど)交流があった様子を日記に記している。
 
[[明治]]元年([[1868年]])、長崎の土佐商会が閉鎖されると、[[開成館 (土佐藩)|開成館]]大阪出張所(大阪商会)に移る。翌2年([[1869年]])10月、大阪商会は'''九十九(つくも)商会'''と改称、弥太郎は海運業に従事する。このころ、'''土佐屋善兵衛'''を称している。廃藩置県後の明治6年([[1873年]])に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の[[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]][[堀江 (大阪市)|堀江]]の土佐藩蔵屋敷([[土佐稲荷神社]]付近)に九十九商会を改称した'''「[[三菱商会]](後の郵便汽船三菱会社)」'''を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマークを作ったことはつとに有名である。
海援隊や士族出身の社員に徹底した商人教育を施した。
 
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