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ウァレリアヌスは軍人皇帝時代に即位した他の皇帝とは違い、由緒ある[[元老院 (ローマ)|元老院]]議員の一族の出自である。ウァレリアヌスの前半生ははっきりとしないが、エグナティア・マリニアナ([[:en:Mariniana|en]])と結婚して、2人の息子を儲けた。すなわち、後のローマ皇帝[[ガッリエヌス|プブリウス・リキニウス・エグナティウス・ガッリエヌス]]とウァレリアヌス・ミノルである。
 
[[238年]]にウァレリアヌスは[[プリンケプス・セナトゥス]]に選出され、当時の皇帝[[ゴルディアヌス1世]]はウァレリアヌスを通じて、元老院と交渉したとかっている。
 
[[251年]]、皇帝[[デキウス]]の時代に[[ケンソル]](監察官)に選出、また、[[ライン川]]沿岸の[[ノリクム]]および[[ラエティア]]両属州の総督に任じられた。デキウスが[[アブリットゥスの戦い]]で戦死した後も、引き続いて総督職を維持したが、デキウスの後継皇帝の[[トレボニアヌス・ガッルス]]に対して[[マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス]]が反乱を起こして、トレボニアヌス・ガッルスおよびその共同皇帝[[ガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌス]]が殺害されると、アエミリウスを追討するため、軍を率いて南下。その後、アエミリウスが自軍内の兵士に殺害されると、[[253年]]にウァレリアヌスはローマ皇帝となった。
 
ローマ皇帝が敵国に捕らえられたのはローマ史上初めて(この後にも11世紀の東ローマ皇帝[[ロマノス4世ディオゲネス]]しかいない)であった。先の[[アブリットゥスの戦い]]と共にローマの国力低下を物語る出来事となった。
 
なお、ウァレリアヌスが虜囚となった1年後の[[260年]]からガッリエヌスが単独皇帝となったが、[[19世紀]]の[[歴史家]][[エドワード・ギボン]]が'''30人僭帝時代'''と称する分裂の時代を迎えることとなった。
 
==関連項目==
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