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ちちぶ (会話 | 投稿記録)
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'''尊長'''(そんちょう、生年未詳 - [[安貞嘉禄]]3[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]([[1227年]][[7月21日]]))は[[鎌倉時代]]初期の僧侶。[[中納言|権中納言]][[一条能保]]の子。異母兄弟に[[一条高能|高能]]、[[一条信能|信能]]、[[一条実雅|実雅]]らがある。[[法印]]、[[法勝寺]]執行、また[[出羽国]][[出羽三山|羽黒山]]総長吏。通称は二位法印。
 
[[延暦寺]]の僧であったが、その智謀と武芸を認められ、[[後鳥羽上皇]]の側近となる。上皇の[[鎌倉幕府]]打倒計画には首謀者の一人として参加。[[承久]]3年([[1221年]])の[[承久の乱]]に当たっては、義兄弟ながら親幕府派の筆頭と目されていた[[西園寺公経]]父子の逮捕・監禁に当たるなど、上皇の片腕として行動する。幕府軍との戦闘においては、兄弟の信能とともに芋洗方面の守備に就くが、敗戦が明らかになると乱軍の中を脱出し行方不明となる。
 
6年の潜伏の後、安貞元嘉禄3年(1227年)京において謀反を計画しているところを発見され、[[六波羅探題]][[北条時氏]]の近習・菅十郎左衛門周則によって逮捕され、誅殺された(一説に自害したとも)。捕縛された際に自殺し損なった尊長は、「早く首を切れ。さもなければ義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫び、その3年前における前[[執権]][[北条義時]]の死去がその室[[伊賀の方]]による毒殺であったことを示唆したとされる([[藤原定家]]の日記の記述による)。また尊長は問いつめる武士たちに「今から死ぬ身であるのに、嘘など言わん」とも述べたという。このことは現在、義時死後に起こった[[伊賀氏の変]]において尊長の兄弟である一条実雅が将軍候補とされていたことと、関連つけて語られることが多い。
 
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