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{{Otheruses|鎌倉時代の九条兼実による日記|鎌倉時代の勅撰和歌集|玉葉和歌集}}
『'''玉葉'''』(ぎょくよう)は、[[関白平安時代]]・太政大臣末期から[[九条兼実鎌倉時代]]の[[日記]]。別名'''玉海'''、'''月輪兼実公記'''とも。朝廷から武家政治への激動期に際しかけ関白執筆された、日本職にあった公家[[九条兼実]]公私にわたる録である
 
== 概要 ==
『玉葉』は兼実の公私にわたる記録であり、その記述は[[1164年]]([[長寛]]2年)から[[1200年]]([[正治]]2年)に及んでいる公家日記時期、宮中行事の院政から武家政治へと政治体制が変動時期と重どを後に伝える目的があり、儀式[[治承・寿永次第が詳細乱|源平の争乱]]ついても多数の述がある。このことから、平安時代末期から鎌倉時代初期の研究を行う上での基礎史料と位置付けられている。
 
また、当時の[[治承・寿永の乱|源平の争乱]]についても多く記されて[[平安代]]末期から[[鎌倉時代]]初期の変動期についての基礎史料になっている。同時代の史料としては『[[吾妻鏡]]』もあるが、これは[[鎌倉幕府]]とりわけ[[北条氏]]の立場で編纂された[[正史]]に近いものであるから。一方九条兼実は[[関白]]や[[太政大臣]]を歴任した朝廷側の人間大物であり、『玉葉』は朝廷側日記史料して記述された言える。そのことから『玉葉』と『吾妻鏡』は相補的に用いられることが多い。
 
また当時の公家の日記は、宮中行事を遂行するための所作など(=[[有職故実]])を後世に伝える目的も帯びていた。『玉葉』も例外ではなく、宮中における儀式の次第が詳細に記されている。
 
兼実の孫・[[九条道家]]の没後、元本は[[一条家]]に伝えられた。[[九条家]]に伝わるものは写本である。
 
=== 別名 ===
『玉葉』は『'''玉海'''』『'''月輪兼実公記'''』などと呼ばれることがある。このうち『玉海』については、同じ五摂家の[[二条家]]が『玉葉』という名称を用いず『玉海』と呼んだのが始まりとされる。
 
江戸時代、水戸藩が[[大日本史]]を編纂する時は『玉海』の名で記載された。
 
兼実の孫である[[九条道家]]没後、元本は[[一条家]]に、写本が[[九条家]]に伝来された。また、[[二条家]]では『玉葉』という名称を用いずに『玉海』と呼称を用いたとされている。
== 影響と価値 ==
公家の日記の特色として、政務を遅滞なく礼儀正しく遂行すであための所作や言語を具体的に描かれている。いわゆる有職故実を伝えている。この日記『玉葉』がどの様な経緯で人の目に触れるようになったかは定かでないが、鎌倉時代初期から多くの人に読まれてきたものと思わ推測さる。したがっ鎌倉幕府の記録である[[おり、『吾妻鏡]]の編纂にも影響を与えている。江戸時代水戸藩の大日本史編纂にも『玉海』の名で用いられた可能性がある
 
本書の価値は兼実の識見の高さでしかも表現の明快熟達にあり、さらに記事の随所にある人物評や世相の動向を巧みにとらえて活写している事にある<ref>古典の事典編纂委員会編『古典の事典・<small>精髄を読む</small>第3巻』1987年・河出書房新社刊 ISBN 4-309-90203-0</ref>
 
本書の価値は兼実の識見の高さでしかも表現の明快熟達にあり、さらに記事の随所にある人物評や世相の動向を巧みにとらえて活写している事にある。<ref>古典の事典編纂委員会編『古典の事典・<small>精髄を読む</small>第3巻』1987年・河出書房新社刊 ISBN 4-309-90203-0</ref>
== 参考文献 ==
* 国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』第4巻([[吉川弘文館]]、1984年) ISBN 4-642-00504-8
== 出典 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[九条兼実]]
 
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