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[[Image:Auguste von Braunschweig-Wolfenbüttel.jpg|200px|thumb|right|アウグステ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル]]
'''アウグステ・カロリーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル'''('''Auguste Karoline von Braunschweig-Wolfenbüttel''', [[1764年]][[12月3日]] - [[1788年]][[9月27日]])は、ヴュルテンベルク公子フリードリヒ、
== 生涯 ==
ブラウンシュヴァイク公[[カール2世・ヴィルヘルム・フェルディナント (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|カール2世・ヴィルヘルム・フェルディナント]]と、[[イギリス]]王女[[オーガスタ・オブ・ウェールズ|オーガスタ]]の長女(第1子)として、[[ブラウンシュヴァイク]]で生まれた。イギリス王妃となった[[キャロライン・オブ・ブランズウィック]]は妹である。[[1780年]]、ヴュルテンベルク公[[フリードリヒ2世オイゲン (ヴュルテンベルク公)|フリードリヒ2世オイゲン]]の嫡子フリードリヒ・ヴィルヘルムと結婚。4子を生んだ。
*[[ヴィルヘルム1世 (ヴュルテンベルク王)|ヴィルヘルム1世]](1781年 - 1864年)
*[[カタリーナ・フォン・ヴュルテンベルク|カタリーナ]](1783年 - 1835年)
*ゾフィア・ドロテア(1783年 - 1784年)
*パウル(1785年 - 1852年)
結婚後すぐにフリードリヒは妻に対して暴力をふるうようになり、[[1786年]]12月に夫妻で[[ロシア帝国|ロシア]]訪問の際、アウグステは女帝[[エカチェリーナ2世]]の私室へ避難したほどだった。エカチェリーナは、フリードリヒがロシア宮廷から去るよう求める手紙を書くよう指示した。これに、皇太子妃[[マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后)|マリア・フョードロヴナ]](フリードリヒの実妹)が兄を援護し抗議した。エカチェリーナは『ヴュルテンベルク公子の不名誉を隠すのは私ではない』という素っ気ない返事を書いた。
アウグステの父は娘にまったく同情せず、娘の離婚の申し立てを拒絶した。この返答の
{{DEFAULTSORT:あうくすて かろりね}}
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