「マリア・クリスティーナ・フォン・ザクセン (1770-1851)」の版間の差分

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'''マリア・クリスティーナ・アルベルティーナ・カロリーナ・フォン・ザクセン'''([[ドイツ語]]:Maria Christina Albertina Carolina von Sachsen, [[1770年]][[12月7日]] - [[1851年]][[11月24日]])は、[[サルデーニャ王国|サルデーニャ王家]][[サヴォイア家]]傍系のカリニャーノ公[[カルロ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア=カリニャーノ|カルロ・エマヌエーレ]]の妃。サルデーニャ王[[カルロ・アルベルト]]の母。イタリア語名は'''マリーア・クリスティーナ・ディ・サッソニア'''(Maria Cristina di Sassonia)。
 
かつて[[クールラント・ゼムガレン公国|クールラント公国]]の統治者を務めた[[ザクセン公国|ザクセン]]公子[[カール・フォン・ザクセン|カール]]([[ポーランド王国|ポーランド王]]兼[[ザクセン選帝侯]][[アウグスト3世 (ポーランド王)|アウグスト3世]]の五男)と、ポーランド貴族の娘[[:pl:Franciszka Krasińska|フランチシュカ・クラシンスカ]]{{enlink|Franciszka Krasińska||pl}}伯爵夫人との間に生まれた。両親の結婚は[[貴賤結婚]]であったが、母フランチシュカが1775年に[[神聖ローマ皇帝]][[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]から侯妃の称号を授かったことで、帳尻が合わせられた。
 
マリア・クリスティーナは1797年、[[トリノ]]で第6代カリニャーノ公[[カルロ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア=カリニャーノ|カルロ・エマヌエーレ]]と結婚し、間に2人の子供をもうけた。
 
#[[カルロ・アルベルト]](1798年 - 1849年)…第7代カリニャーノ公、のちサルデーニャ王
#[[マリーア・エリザベッタ・ディ・サヴォイア=カリニャーノ|マリーア・エリザベッタ]](1800年 - 1856年)…オーストリア大公[[ラニエーリ・ダズブルゴ|ライナー・ヨーゼフ]]と結婚
 
結婚から3年後の1800年、夫カルロ・エマヌエーレは同盟者である[[フランス第一共和政|フランス共和国]]を裏切ったとしてフランス当局に逮捕され、[[パリ]]で獄死した。マリア・クリスティーナはその16年後の1816年、フランスのモンレアル公爵ジュール・マクシミリアン(1787年 - 1865年)と再婚した。この再婚では子供は生まれなかった。マリア・クリスティーナは1851年、パリで世を去った。80歳だった。
 
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[[Category:ヴェッティン家アルブレヒト系]]
[[Category:イタリア史の人物]]
[[Category:1770年生]]
[[Category:1851年没]]