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== 経歴 ==
=== 1980年代前半 ===
1983年に[[ATS (F1・ドイツ)|ATS]]チームのデザイナーとしてF1で初めて仕事のキャリアスタートさせ、その後2年間にわたって同チームの車体設計に携わり、1983年の[[ATS・D6|ATS D6]]、1984年の[[ATS・D7|ATS D7]]シャシーをデザインした。同チームは1984年をもってF1から撤退したが、チーム代表の[[ハンス・ギュンター・シュミット]]との間で反りが合わなくなったため、ブルナーはチームから去り、翌1985年は[[RAM (F1)|RAMレーシング]]に移り、RAM03シャシーをデザインした。
 
小規模なチームを渡り歩いたため、大きな結果を残すことはできなかったが、少ない予算のチームで良いシャシーを設計する手腕は他チームの関係者からも高い評価を得ていった。特に最初の作品であるATS D6では、小規模チームながらカーボンモノコックをいち早く採用し、それを実現するために、よりコストを抑えることができるメス型成型のモノコックを発案し、製造に用いた。当時のトップチームが用いたモノコックは全てオス型成型によるものであったが、後にこのブルナーの手法は広まり、以後はレースカーのカーボンモノコック製造においてメス型成型が主流となっていった。
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1985年限りでRAMが撤退して後、[[アロウズ]]、フェラーリ、[[リアル (F1)|リアル]]で設計に携わり、1989年に[[ザクスピード]]においてテクニカルディレクター(技術監督)の地位に就任した。
 
この年のザクスピードのシャシー[[ザクスピード・891|ZK891]]はブルナーの作品の中では成功作とは言いがたく、年間で、予選通過ですら[[ベルント・シュナイダー (レーサー)|ベルント・シュナイダー]]によるわずか2回にとどまり、このクルマで全戦[[予備予選 (F1)|予備予選]]落ちという不名誉きわまる結果を残した[[鈴木亜久里]]は、後々までブルナーに怨嗟の言葉を吐き続けることとなる。
 
この年限りでザクスピードがF1から撤退したため、1989年の末には[[マーチ (F1)|マーチ]]から衣替えされた[[レイトンハウス]]に移籍した。
 
=== 1990年代初頭 ===
[[エイドリアン・ニューウェイ]]によってデザインされたレイトンハウスの1990年のシャシー[[レイトンハウス・CG901|CG901]]はドライバビリティに問題を抱えていたため、ニューウェイの離脱後、その再設計を求められたブルナーは、[[クリス・マーフィー]]とともにそれに取り組んだ。完成した改良型CG901Bは第7戦[[フランスグランプリ|フランスGP]]から投入され、[[ポール・リカール・サーキット|ポール・リカール]]のフラットな路面とチームが取ったタイヤ無交換作戦功を奏したこともあり、このレースにおいてドライバーの[[イヴァン・カペリ]]と[[マウリシオ・グージェルミン]]が一時的に1位と2位で走行し、結果的にもカペリが2位表彰台を得たことで、大きな注目を浴びた。しかし、空力に敏感という基本設計的な性格は変わらず、それ以降のレースでは目立った成績は残せなかった。
 
翌年のシャシー、[[レイトンハウス・CG911|CG911]]も前年同様空力に敏感なマシンとなってしまい成績も6位1回のみと低迷。シーズン終盤にはレイトンハウス体制が崩壊し、名称がマーチに戻った。
 
マーチが1992年限りで撤退したため、ブルナーはミナルディに移籍し、1993年の[[ミナルディ・M193|M193]]シャシーをデザインした。特筆すべき結果を残したわけはなかったが、同チームのテクニカルディレクターでデザインチーフの[[アルド・コスタ]]とのコンビで設計したこのシャシーは、素性良く仕上がった好作品となった。しかし、ブルナーはミナルディにも長くは留まらず、今度はフェラーリの技術開発部門に移籍した。
 
=== 再びフェラーリへ ===
[[ジョン・バーナード]]の設計になる1994年型フェラーリ、[[フェラーリ・412T1|412T1]]はサスペンションの設計など少なくない問題点を抱えていたため、途中加入のブルナーはそれらの改良を任された。改良型のシャシーは[[フェラーリ・412T1|412T1B]]として第7戦[[フランスグランプリ|フランスGP]]で投入され、[[ゲルハルト・ベルガー]]の運転により、第9戦[[ドイツグランプリ|ドイツGP]]においてフェラーリにとっても久々の優勝を遂げた。
 
しかし、フェラーリはあくまでバーナードをデザインの中心に据えたため、ブルナーの役目はこの1994年の412T1、1996年の[[フェラーリ310・F310|F310]]といった、バーナードの設計の失敗の尻拭いをさせられる、いわば予備要員に近いものであった。設計の主導権を任されることはなかったが、ブルナーによるこれらの改良型は確実に初期型を上回る成果を出したため、ブルナーは再設計の手腕をますます高く評価されることとなる。
 
1996年に[[ミハエル・シューマッハ]]が加入して以降、フェラーリのデザイン部門改革が急進し出したため、1997年をもってチームから去った。
 
=== 再びミナルディへ ===
1998年にミナルディに復帰し、1999年にテクニカルディレクターに就任した。復帰後の初作品となったのは1999年の[[ミナルディ・M01|M01]]で、そこそこの戦闘力を発揮し、第14戦[[ヨーロッパグランプリ|ヨーロッパGP]]では、レースが大荒れとなったことにも助けられ、ミナルディにとって久々の入賞を記録した。この入賞により、潤沢な予算規模を持つとされた新チーム、[[B・A・R|ブリティッシュ・アメリカン・レーシング]]をシリーズランキングで上回り、「最も予算規模が小さいチーム」でクルマを設計したブルナーにも注目が集まった。
 
続く2000年の[[ミナルディ・M02|M02]]で、低予算のミナルディながら、トップチームですら採用していなかった[[チタン]]鋳造のギアボックスを採用し、それにリアサスペンションのトーションバーを組み込むという意欲的な設計を盛り込んだ。この設計は構想倒れに終わることなく、入賞(6位以内完走)こそなかったが、数度のシングルフィニッシュ(9位以内完走)を記録するなど、M02は好走を見せた。
 
この頃になると、低予算チームでも新規性に富んだアイデアを盛り込みつつ素性も良いシャシーを作る手腕が改めて評価されて注目を集め、グランプリ期間中にエイドリアン・ニューウェイなど、トップチームのデザイナーたちがミナルディのピット前で最下位であるミナルディのクルマをまじまじと観察するという様が見られるようになった。
 
2001年、この年の[[ミナルディ・PS01|PS01]]ではプッシュロッドが主流の時代の流れに逆らい、サスペンションにプルロッドを採用した。このシャシーも関係者からの評価は悪くなかったが、搭載された[[フォード・コスワース・ZETEC-Rエンジン|コスワース・ZETEC-Rエンジン]]はすでに3年落ちであり、資金力なども含めた他チームとの差を埋めることはできず、チーム成績は低迷した。[[フェルナンド・アロンソ]]はこのマシンでF1デビューを果たし、自身の参戦初年度ながらしばしば好走を見せた。
 
==== 突然の移籍 ====
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=== トヨタ ===
トヨタにチーフデザイナーとして参し、同チームのF1参戦初年度2002年の[[トヨタ・TF102|TF102]]を手掛けたデザインがトヨタでの初仕事となった。
 
TF102はトヨタ入りして間もなくの急ごしらえのものであったため、設計のための充分な時間がなく、このクルマのデザインは多くをミナルディ時代のそれから流用した、とされる。そのためか、離脱以前に基本設計を終えていた(とストッダートは主張した)ミナルディの2002年型シャシー、[[ミナルディ・PS02|PS02]]とよく似た外観のクルマとなった。実際にトヨタで設計された初作品と言えるのは[[トヨタ・TF103|TF103]]であるといえる。<!--トヨタF1の公式サイトはTF103をトヨタにおける初作品と書いていた(離脱に伴いすでに消去済み)-->
 
潤沢な資金を持つチームに移籍したことで活躍を期待されたが、この時期の作品に手掛けたマシンが注目を集めることはほとんどなかった。
 
2003年末に[[ルノーF1|ルノー]]から移籍してきた[[マイク・ガスコイン]]がテクニカルディレクターに就任して以来、ガスコインの構想から不要と判断されたブルナーは不遇をかこつこととなり、2005年12月に、トヨタチームからの離脱が公表された。