「小泉組 (請負業)」の版間の差分

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概要
概要
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== 概要 ==
小泉組は、[[武蔵国]]久良岐郡六浦荘村大道(現在の[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]]大道)の[[鳶職|とび職]]小泉由兵衛が[[明治]]初期、[[横須賀市|横須賀]]に移住し、[[海軍]]の[[軍艦]]に[[石炭]]、[[砲弾]]、[[食糧]]、[[労務者]]などを送り込む港湾荷役[[手配師|請負師]]となり、小泉組を創設した<ref>当時の横須賀では[[沖仲仕]]の[[手配師]]として、目兼の大親分と小泉組が縄張りを競い合い、[[博徒]]たちのにぎやかな出入りがくり返されていたという([[藤原肇]]『小泉純一郎と日本の病理』29頁)。梅田功の著書『変革者 小泉家の3人の男たち』28頁に「又次郎が生まれた当時、[[鎌倉街道]]に面したこの地は、戸数わずか三十二戸の小さな村であったという。父・小泉由兵衛は[[村]]の代々の[[鳶職]]だったが、のちに軍港[[横須賀市|横須賀]]に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の[[手配師|請負師]]になった」とある。[[宮崎学]]の著書『[[ヤクザ]]と日本―近代の無頼』54-55頁には「1884年(明治17年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、[[日清戦争]](1894~1895年)から[[日露戦争]](1904~1905年)にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負から[[やくざ]]組織が生まれていったのである。当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、[[博徒]]の目兼組と鳶の小泉組であった。この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく。そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・小泉由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨を決定的にし、小泉組は軍港の[[やくざ]]として一大組織を築くことになった。この又次郎こそが、のちの首相・[[小泉純一郎]]の祖父であった。この小泉組も、[[吉田磯吉]]と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代[[ヤクザ]]のひとつにほかならない。」とある</ref>。その影響力は、やがて「港湾一の請負業」とよばれ羽振りをきかせたという。
 
[[第二次世界大戦]]で日本軍が南方に進出していった時代、小泉組も占領地などの兵舎建設にたずさわっていた<ref>