「バイエルン継承戦争」の版間の差分

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== 背景 ==
[[画像:MaximilianIII.jpg|200px150px|thumb|バイエルン選帝侯マクシミリアン3世]]
[[画像:Karl Theodor, Kurfürst (1742-1799).jpg|200px150px|thumb|プファルツ選帝侯カール4世フィリップ・テオドール]]
1777年12月、[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[マクシミリアン3世ヨーゼフ (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン3世ヨーゼフ]]が死去し、これによってバイエルン・[[ヴィッテルスバッハ家]]は断絶した。選帝侯家は同じ[[ヴィッテルスバッハ家]]の[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[カール・テオドール (バイエルン選帝侯)|カール4世フィリップ・テオドール]]が併せて継承することになった。
 
[[画像:Joseph II by Tröndle.jpg|200px150px|thumb|left|神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世]]
[[神聖ローマ皇帝]][[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]がこれに介入する。[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]はかねがねバイエルンを自国に編入することを狙っていたが、[[スペイン継承戦争]]、[[オーストリア継承戦争]]いずれのときも情勢の変化からこれを果たせなかった。ヨーゼフ2世は[[ポーランド分割]]に続く領土拡張の好機と考え、カール・テオドールに、バイエルン領の割譲を要求した。具体的には、下バイエルンと上プファルツである。カール・テオドールはバイエルンに対する統治意欲が無く、これを二つ返事で受け入れる。ヨーゼフは翌年1月には早くも下バイエルンに兵を進めて駐屯させた。