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[[東京タイムズ|東京タイムズ社]]に入社し、『東京タイムズ』の[[政治部記者]]として田中角栄と知り合った。[[1962年]]に[[大蔵大臣]]に就いた田中の[[秘書官]]となり、[[内閣総理大臣]]在任中とその後の「[[ロッキード事件]]」による逮捕の時期を含め、田中が[[脳梗塞]]で倒れた[[1985年]]まで政策担当の秘書を務めた。田中の病気治療方針などをめぐり、長女[[田中真紀子|真紀子]]と対立し罷免、政治評論家に転身した。
 
田中角栄の政治的足跡や、出会った人々の生き方をテーマにした著書を多く出し、人生論を若者向け雑誌に連載し、全国各地で講演活動を行うなど幅広い活動をしていた。[[テレビ番組]]では[[報道番組]]のほか他、多数のトーク番組やクイズ番組、またドラマにも特別出演した。?たた
 
[[2004年]][[6月20日]]に[[肺癌|肺ガン]]のため死去。[[享年]]73。葬儀は遺言によりしめやかに行なわれた。
 
==エピソード==
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*1982年に[[渡辺恒雄]]と共に、[[中曽根康弘]]の首相就任に奔走した。中曽根嫌いの角栄が矛を収めたのは早坂の手腕が大きいという。なお中曽根は首相就任後、渡辺と共に料亭で早坂と面会し、中曽根が土下座し角栄や早坂へ賛辞を述べた。
*1989年4月[[竹下登]]首相辞任の翌日に、秘書[[青木伊平]]が自殺したときには、数十年来の付き合いのあった早坂もテレビインタビューに出て、最初は冷静に淡々と応じていたが、やがてタバコを吸おうとして「かわいそうだなあ。苦労してね。もうね、こういうのはね、もうこれっきりにしてもらいたいな」と声を震わせている。
*1992年に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列で、放送された連続ドラマ「[[ジュニア・愛の関係]]」では政界の実力者・田丸魁に扮し、堂々たる演技を披露している(このドラマに出演した理由は、それ以前に同局で放送されていた「[[七人のHOTめだま]]」の出演者として好評を博し、プロデューサーから頼み込まれたため)、本人は著書で一度きりの道楽と述べている
*1993年の[[総選挙]]で真紀子が初当選したときに、選挙特番に出演していた早坂が「マコちゃんおめでとう」とねぎらいの言葉をかけたがピンマイクが外れて聞こえないふりをされている
*1999年5月、因縁の深い[[全日本空輸|全日空]]機の離陸時に、椅子を倒したままだったので[[スチュワーデス]]に椅子を元に戻すように促されたが、頑なに拒否。出発が大幅に遅れた。翌日の新聞にも報道され、マンガでも扱われた。
*2001年に[[TBSテレビ|TBS]]の『[[ここがヘンだよ日本人]] [[外務大臣]][[田中真紀子]]特集』にゲスト出演したが、「田中真紀子」紹介のVTR後、真紀子に対する自分のコメントを聞かず、やたら野次を飛ばす外国人出演者たちの態度の悪さに感情を露に怒っている。
*2004年4月号『[[文藝春秋]]』の特集記事、「 250万人が読んだ[[芥川賞]]二作品の衝撃」で20歳で芥川賞を受賞した[[綿矢りさ]] と、[[金原ひとみ]]の作品を批評、綿矢「[[蹴りたい背中]]」を「私の[[旧制中学]]時代は『天皇のために死ね』、『[[本土決戦|鬼畜米英]]を撃滅せよ』の毎日であり、高校生仲間の[[村八分|ムラ八分]]でうじうじする少年少女は倖せ者で羨ましい」と評し、舌にピアスをする若者を描いた金原「[[蛇にピアス]]」には、「私の若い頃は親から貰った体を大事にしろといわれたものだ」と発言。他の寄稿者がほとんど全員「理解ある」態度を示す中で、高齢者としての違和感を率直に表明して異彩を放った。まもなく早坂は病没、これが最後の文章でまさに「遺言」となった。
 
==著書==