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'''生野山の戦い'''(なまのやまのたたかい)は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[永禄]]4年([[1561年]])[[11月27日]]に[[武蔵国]]生野山(生山とも。現・埼玉県[[美里町 (埼玉県)|美里町]])において、[[北条氏康]]と[[上杉謙信|上杉政虎]](上杉謙信)との間で行われた戦い。
[[武蔵国]]生野山(生山とも)において、[[北条氏康]]と[[上杉謙信]]との間で行われた戦い。背景には武蔵国の中原を押さえる要衝・[[松山城 (武蔵国)|松山城]]の支配権を巡る北条氏と上杉氏の対立があった。氏康は[[小田原城の戦い (1560年)]]で政虎(当時の上杉謙信の名)の攻勢を食い止めた後、反撃に転じた。政虎に攻め落とされた松山城を奪還するため、北条軍は上杉方となっていた松山城を攻撃した。[[武田信玄]]と4度目の[[川中島の戦い]]を繰り広げていた政虎(当時の上杉謙信の名)は、[[越後国]]へ帰国後すぐに松山城救援の軍を差し向けた。なお、この上杉軍を政虎自ら率いていたかは不明である。北条軍は、この松山城の後詰めの上杉軍を、城に程近い生野山で迎え撃ち、野戦に及んだ。上杉軍は直前の川中島の戦いで戦力を消耗していた為、満足に戦うことが出来ずに苦戦し、戦場から撤退した。しかし後詰めの上杉軍は撤退したものの、北条軍はこの時は松山城を陥落させるに至らず。これ以降も氏康は信玄と同盟し、一方で謙信は[[里見義堯]]と同盟して関東の覇権を巡って骨肉の争いを続けることになる。
 
この合戦の背景には武蔵国の中原を押さえる要衝・[[松山城 (武蔵国)|松山城]]の支配権を巡る[[後北条氏|北条氏]]と[[上杉氏]]の対立があった。氏康は[[小田原城の戦い (1560年)|小田原城の戦い]]で政虎(当時の上杉謙信の名)の攻勢を食い止めた後、反撃に転じじ、政虎に攻め落とされた松山城を奪還するため、北条軍は上杉方となっていた松山城を攻撃した。
 
[[武蔵国]]生野山(生山とも)において、[[北条氏康]]と[[上杉謙信]]との間一方行われた戦い。背景には武蔵国の中原を押さえる要衝・[[松山城 (武蔵国)|松山城]]の支配権を巡る北条氏と上杉氏の対立があった。氏康は[[小田原城の戦い (1560年)]]で政虎(当時の上杉謙信の名)の攻勢を食い止めた後、反撃に転じた。政虎に攻め落とされた松山城を奪還するため、北条軍は上杉方となっていた松山城を攻撃した。[[武田信玄]]と4度目の[[川中島の戦い]]を繰り広げていた政虎(当時の上杉謙信の名)は、[[越後国]]へ帰国後すぐに松山城救援の軍を差し向けた。なお、この上杉軍を政虎自ら率いていたかは不明である。北条軍は、この松山城の後詰めの上杉軍を、城に程近い生野山で迎え撃ち、野戦に及んだ。上杉軍は直前の川中島の戦いで戦力を消耗していた為、満足に戦うことが出来ず苦戦し、戦場から撤退した。しかし後詰めの上杉軍は撤退したものの、北条軍はこの時は松山城を陥落させるに至らず。これ以降も氏康は信玄と同盟し、一方で謙信は[[里見義堯]]と同盟して関東の覇権を巡って骨肉の争いを続けることになる。