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===大陸封鎖令===
[[1806年]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]は、大陸諸国に英国との通商を禁じる、[[大陸封鎖令]]を[[ベルリン]]で宣言した。[[中立]]を維持する2つの国([[スウェーデン]]と[[ポルトガル王国|ポルトガル]])は、ナポレオンの通牒を拒否し、ナポレオンは武力をもってこの両国に大陸封鎖令を強制しようと画策し始める。[[1807年]]の[[ティルジット条約]]の後、スウェーデンは[[ロシア帝国]]と[[第二次ロシア・スウェーデン戦争|戦うことになり]]、ナポレオンは残るポルトガルの攻略を決定した。[[1807年]][[11月]]、[[大陸同盟]]参加に[[摂政]][[ジョアン6世 (ポルトガル王)|ジョアン王子]](後のジョアン6世)が最終的に拒絶したのを受けて、[[ジャン=アンドシュ・ジュノー]]指揮する部隊にポルトガル攻略を命じ、スペインに送った。同時に、スペイン首相マヌエル・ゴドイがナポレオンの委任を受けて、デュポン将軍率いる部隊を[[カディス]]方面に送り、[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト|スールト]]将軍の部隊を[[ア・コルーニャ|コルナ]]方面に送った。スペインの2個師団は対立するポルトガル占領しよう艦隊奪取を目論んでいたのはゴドイも同じで、[[スペイン軍]]2個[[師団]]をフランス軍と合流したさせている両軍の侵攻に対し、ポルトガル[[首都]][[リスボン]]は、[[ポルトガル陸軍]]守備隊がイギリス軍の攻撃から港湾と海岸を護るのに配置されていたため、軍事的抵抗もないまま、[[12月1日]]に攻略された。しかしすでに[[11月29日]]にポルトガル王妃と摂政本人、そして6000人もの人々(艦隊の9000人の船員がそれに加わる)が逃亡したことは、ジョアン王子に[[ブラジル]]を含む海外の植民地の統治の継続を可能とした。それはナポレオンにとって大きな打撃となり、そのことは[[セント・ヘレナ島]]の記念碑に「これが私を滅ぼした。(''C'est ça qui m'a perdu'')」と記されている。
 
仏・西軍のポルトガル占領を補強する口実として、ナポレオンは軍をスペインの要衝に派兵し始めた。結果[[パンプローナ]]と[[バルセロナ]]が[[1808年]]2月に占領された。外国軍の進駐を受けたスペインでは[[貴族]]たちによる政変が発生、[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]退位させ、彼が用いていたゴドイは失脚、代わってフェルナンド王子が[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]として即位した。ナポレオンはスペイン王家を[[バイヨンヌ]]に追放して、[[5月5日]]に親子2人に退位を強制し、スペイン王位を自分の兄[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]に与えたのである。傀儡のスペイン議会はこの新王を承認した。ジョゼフ改めスペイン王ホセ1世が改革を断行するためにスペイン統治を強化しようとすると、[[フランス人]]支配を嫌う人民の反乱を引き起こすことになった。5月2日、[[マドリード]]の市民は、フランスの占領に対して、暴動を起こしたのである。しかしこの蜂起は[[ジョアシャン・ミュラ|ミュラ]]によって粉砕された。
 
それまでイギリスはヨーロッパ海戦では輝かしい勝利を何度も収めたものの、大陸における軍事作戦で中途半端なへまと相次ぐ敗戦で([[1809年]]の[[ゼーラント州|ワルヒェレン]]遠征を最後に)面目を失うというのが特徴だった。強力な同盟なしでは[[イギリス陸軍]]はフランスに対して十分な作戦をでき勝利は望めず、イギリスはいまだヨーロッパ大陸に足がらの撤退余儀築けくされてきいでいた。そういうわけで、ポルトガルはナポレオンとの戦争でイギリスが支援するのを拒否したのである。
 
スペイン軍は、[[5月19日]]から[[5月21日|21日]]にかけての[[バイレーンの戦い]]で[[ピエール・デュポン]]指揮のフランス軍に対し劇的な勝利をおさめ、15000人以上の捕虜を得た。[[6月18日]]にはポルトガルでも反乱がおきた。ポルトガルとスペインでの人民の反乱は、イギリスに再び事実上介入軍事行動を起こす誘惑を掻き立て、初めて王侯貴族でなく人民が「大いなる侵略者」に反乱を起こしたというイギリスの宣伝で、すぐさま珍しい状況をもたらした。
 
===イギリス軍上陸 ===