「第36SS武装擲弾兵師団」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
1行目:
[[Image:36divss.gif|thumb|right|250px|第36SS武装擲弾兵師団の師団章]]
 
'''第36SS武装擲弾兵師団'''(だい36SSぶそうてきだんへいしだん、独:''36.Waffen-Grenadier-Division der SS'')は、[[武装親衛隊]]の38ある個編制された[[師団]]の1部隊である言われる部隊名「ディルレヴァンガー」は、師団長[[オスカール・ディルレヴァンガー]]に由来す因み、「ディルレヴァンガー」な部隊名で呼称されることのであるが、こちらはあくまで俗称であり正式名称ではない
 
戦争初期に形成された[[懲罰部隊]]が元となった部隊であり、[[懲罰そこで服役していた]]や[[強制収容所]]からの[[捕虜]]から構成されていた。そのため、ドイツ軍の中では非常に評判が悪かった部隊の1つであり、各種の[[戦争犯罪]]([[虐殺]]、[[略奪]])に関与している。兵士の消耗が激しくなった戦争末期([[1944年]]以降)には、通常の[[軍人|正規]]の比率も増大しているが、戦争中を通じて対[[パルチザン]]任務に参加しており、その戦果より戦争犯罪で有名である。
 
名称は師団であるものの、部隊規模としては旅団程度であった。師団章は、交差させた[[M24型柄付手榴弾|柄付き手榴弾]]である。
9行目:
== 沿革 ==
=== 編成と独ソ戦開戦まで ===
[[1940年]][[3月23日]]、[[恩赦]]と引き換えに犯罪者を前線に送るという[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の考えを元に、[[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]の部下の副官[[親衛隊中将|SS中将]][[カール・ヴォルフ]]が検討を開始は新い懲罰部隊の編制にかかった。対象となる犯罪者の範囲や年齢、その他諸々の検討が行われた後、[[密猟|密猟者]]の[[射撃]]の腕を活かした特務部隊編制を名目として、密猟者のうちから服役中もしくは未決囚、軽い犯罪者を中心に部隊を編成することになった。[[1940年]][[4月10日]]にはガイドラインが決まり、6月には北ベルリンから25マイル離れた町[[オラニエンブル]]にある[[ザクセンハウゼン強制収容所|ザッハセンハウセン強制収容所]]に84人の候補者が集められ、'''ヴィルディプコマンド オラニエンブル'''(犯罪者部隊オラニエンブルク犯罪者部隊 ''Wilddiebkommando Oranienburg'')を形成しが編制され早速訓練が開始された。
 
[[画像:Oskar Dirlewanger.jpg|thumb|オスカール・ディルレヴァンガー]]
一方、それと前後してヒムラーの側近で[[親衛隊本部]]の中心的人物だった[[ゴットロープ・ベルガー]][[親衛隊少将]]は、旧友である[[オスカール・ディルレヴァンガー]]が武装親衛隊へ復帰できるよう尽力していた。[[1940年]][[6月4日]]彼はヒムラーと面会合い犯罪者により構成され誕生したばかりだった当のオラニエンブルク犯罪者部隊の指揮官にディルレヴァンガーを推薦した。これをヒムラー承諾と、ベルガーのSS各方面への働きかけもあり、[[1940年]][[6月24日]]、ディルレヴァンガーは一度は追放された親衛隊復帰の辞令を手に入れた。着任後、ディルレヴァンガーは部隊名を変更し、'''ゾンダーコマンド ドクターディルレヴァンガー''' (特殊部隊Dr.ディルレヴァンガー,''Sonderkommando Dr. Dirlewanger'')とし、その2ヵ月後にはSS配下となったことで、部隊名にSSの名前がつき、'''SSゾンダーコマンド ドクターディルレヴァンガー''' (SS特殊部隊Dr.ディルレヴァンガー,''SS-Sonderkommando Dr. Dirlewanger'')となった。
 
部隊は、[[ポーランド]]へ移動し、[[ナチス・ドイツ|独]][[ソビエト|ソ]][[国境]]沿いある構築された防衛線[[オットーライン]]の建築の手伝いを行い、その後、Dzikow(現[[タルノブジェク]])にある[[強制収容所|ユダヤ人の労働キャンプ]]の警備に就いた。この時からすでに部隊の構成員所属将兵が犯した犯罪が問題となり、部隊は[[独ソ戦]]に送られることになった。
 
=== 独ソ戦とパルチザン ===
{{節stub}}
[[バルバロッサ作戦|ドイツ軍がソビエト侵攻を始めると]]戦線後方での[[赤軍パルチザン|パルチザン]]活動が悩みの種となった。[[1942年]]3月部隊はソビエト[[白ロシア]]の中心都市[[ミンスク]]近に到着し、警察連隊ミッテ(Mitte)の配下でパルチザンの掃討を行った。この地で部隊は各種の犯罪を犯しつつも、いくつかの戦果をあげ、その結果ディルレヴァンガーは[[5月24日]]に[[鉄十字|2級鉄十字勲章]]を受けた。[[7月]]には部隊はクリシェフ(Klicev)近くでパルチザン相手の陸軍との共同作戦を行った(アドラー作戦)。この作戦で部隊はパルチザン1000人以上が死亡するというも殺害を報告しており一方でディルレヴァンガー本人も負傷し、名誉負傷金勲章(Wound Badge in Gold)を受ける程の激戦であった。このころ、部隊の人員増加の要望もあり、本来の密猟者のみでなく、一般刑務所の犯罪者や占領地で徴募した[[ウクライナ人]]の採用が行なわれた。
 
その後も基本的には前線での戦闘には従事せず、主に[[ポーランド]]や[[ベラルーシ]]における[[パルチザン]]掃討を任務としていた。