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'''第35SS警察擲弾兵師団'''([[ドイツ語|独]]'''35. SS- und Polizei-Grenadier-Division''')は[[武装親衛隊]]の[[師団]]である。
 
1945年[[1月12日]]、[[赤軍|ソビエト赤軍]]第1白ロシア方面軍は[[ヴァイクセル川]]に沿って防衛線築いていた渡河し[[ドイツ軍]][[A軍集団]]への構成総攻撃を開始、A軍集団の前線は圧倒的戦力差のために崩壊、[[1月31日]]までに赤軍は[[ポーランド]]中央部から[[ドイツ]]東部を突っ切り[[ベルリン]]から100km弱しか離れていない[[オーデル川]]東岸に達していた。この状況に至り、ドイツ軍は使用できる部隊をかき集めオーデル川西岸へ配置、戦線の安定化を図った。その中に後に第35SS[[警察]][[擲弾兵]]師団となる警察[[旅団]]ヴィアトも含まれていた。
 
==SS警察旅団ヴィアト==
[[1月31日]]、警察旅団ヴィアトが2個警察[[連隊]]を持って編成され、オーデル川西岸、グリューンベアク北方に配置された。2月14日以降、皮肉にも[[囚人]]で編成された[[第36SS武装擲弾兵師団|SS突撃旅団ディルレワンガー]]と共に戦線へ投入され、町の一部の町の奪還に成功した。
 
しかし[[2月15日]]、赤軍の一部がグーベン近郊至ったため進出[[ナイセ川]]西岸のドイツ軍部隊に撤退命令孤立する恐れが生じとにより、のため両旅団は奪還した町を放棄してオーデル・[[ナイセ川|ナイセ]]両川合流地点西岸にま撤退、そこで新しい防衛線を構築した。
 
==第35SS警察擲弾兵師団==
警察旅団ヴィアトが[[独ソ戦|東部戦線]]で激戦を繰り広げていた[[2月10日]]、[[親衛隊作戦本部]]は警察旅団ヴィアトを師団編制に拡張することを決定、[[3月1日]]でリューディガー・ピプコルン[[親衛隊大佐]]が[[師団長]]に任命された。師団編成はこのころビエト赤は攻勢活動が重点を[[メルンを中心とし]]方面に移動させていたため、編成作業は順調に進み、[[4月6日]]で将兵10,125名が所属していた。
 
[[4月12日]]、師団は[[中央軍集団]]配下[[第4装甲軍]]の所属となり実戦への投入準備が整ったが、。そして16日、ナイセ川においてソビエト赤軍の大攻勢が開始された。第35SS警察擲弾兵師団の所属していた第5軍団は[[イワン・コーネフ]]率いるソビエト第1ウクライナ方面軍の攻撃を受け、4日後には中央軍集団から切り離されてしまう。やむなく[[ヴァイクセル軍集団]][[第9軍 (ドイツ軍)|第9軍]]の所属へ異動とな指揮下に入ったが、[[4月21日]]の時点でほとんど損害を受けていないのは第35SS警察擲弾兵師団のみという状態であった。
 
==戦闘団==
4月21日、第35SS警察擲弾兵師団はグーベンを防衛していたが、ソビエト第1ウクライナ方面軍が迫りつつあったため、師団はグーベンを防衛する「フレックナー[[戦闘団]]」と主力部隊を中心とした「ピプコルン戦闘団」を編成、前者がグーベン市街を防衛し、後者は[[機動迎撃戦]]でソ連軍の攻勢叩いてまわるという作戦をった。
 
===ピプコルン戦闘団===
4月23日、すでに[[ベルリン]]では[[ベルリン市街戦|市街戦]]が行われていたが、ピプコルン戦闘団は[[リュッベン]]へ反撃を行い、多大な損害を追いつつも[[リュッベン]]西駅の奪還に成功した。しかし、この時点で苦しい防衛戦を展開していた第9軍は上位組織ヴァイクセル軍集団より西へ脱出するよう命令を受けていた([[ハルベの戦い]])。そのため、第9軍司令官[[テオドーア・ブッセ]][[大将]]は防衛線南方で唯一活動することが可能であったピプコルン戦闘団らを主力として、[[ハルベの戦い|バルート方面へソビエト防衛線を突破させる]]ことを決定した。
 
4月25日、ピプコルン戦闘団は激しい戦いを行いつつもドルンスワルデまで進出したがしかし後続部隊が赤軍に撃退されたため、孤立するしてしまう。そととなっていたがへ第二十一装甲師団から編成され、ピプコルン戦闘団よりとは別に北方で脱出のために編成され進撃突破作戦続け行っていた「ルック戦闘団」との合流を果たてきた。しかし戦力は増えたもののソ連軍の攻勢は止むことなく師団長ついにピプコルンは合流後、師団長も戦死してしまう師団長指揮官を失ったピプコルン戦闘団はルック戦闘団の指揮下に入り、共に北方からバルートへ攻撃を行ったが、撃退され、さらには失敗した。翌日にはソビエト部隊連側に援軍が大量に到着、バルートを突破する見込みは存在しなかっ消えた。そのため戦況は絶望的となりついに[[4月26日]]夜、ルック大佐はもはや弾薬も燃料も尽きようとしている状況から戦闘団の将兵にどのような損害を出しても省みずに西の[[エルベ川]]へ脱出するよう命令、両戦闘団は解散した。
 
ルック大佐は少人数で第9軍の元へ戻ろに合流しようとしたが、[[4月27日]]にソビエト赤軍に降伏した。戦闘団の将兵はほんの一握りが[[アメリカ軍]]の[[捕虜]]となることができたが、ほとんどがバルート近郊での戦闘で戦死するか捕虜となった。
 
===フレックナー戦闘団===
フレックナー戦闘団はグーベン防衛を担当していたが、[[4月23日]]、撤退許可が得られたため、ハルベ方面へ撤退を開始、4月27日までに第9軍残余部隊と合流を果たした。翌日、第9軍残余部隊と共に戦闘団はバルート北東で赤軍の防衛線の突破に成功、少数の将兵が[[第12軍 (ドイツ軍)|第12軍]]と合流を果たし、アメリカ軍に降伏した。
 
==師団長==