「シリア・セルジューク朝」の版間の差分

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一方、アレッポでは、リドワーンがドゥカークの敗走を冷ややかに見ていたが、十字軍の略奪が自分の領内に及ぶに至ってアンティオキアに救援の兵を送るがこれも敗北してしまう。
 
応援を求める先のなくなったアンティオキアは[[モースル]]([[ジャズィーラ]]地方、現在の[[イラク]]北部の都市)の[[アタベク]]、[[ケルボガ]](カルブーカ)に救援を求めるが、彼とリドワーン、ドゥカークの連合軍が駆けつける前にアンティオキアは山頂の砦を残して陥落していた。しかも連合軍は士気が低く、これはケルボガがシリアでも大きな顔をすることを恐れたドゥカークが、ケルボガの軍勢に合流した際に、兵隊たちにケルボガの悪口を流しためであった。しかもアンティオキア山上の最後の決戦ではケルボガや領主の軍を置いてドゥカークらは先に退却し、結果ムスリム連合軍は壊走し十字軍によるアンティオキア陥落を許した。結局、ダマスカス・セルジューク政権は包囲の前に入って守りを固めた内陸の[[ホムス]]のみを確保したにすぎなかった。
 
=== ダマスカス政権の消滅 ===
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:イブン・アル・ハシャーブの努力の甲斐なく、アレッポの混乱はこの後も続いた。アルトゥク朝も長続きせず、イブン・アル・ハシャーブは今度はモースル総督アル・ボルソキ(ブルスキ)を連れてきてアレッポをモースルに併合するが、イブン・アル・ハシャーブもアル・ボルソキも暗殺教団に殺され混乱はきわまった。この事態を収拾するのは[[1128年]]に至り、かつてトゥトゥシュによって殺害されたアク・スンクルの子で、モースルの総督だった[[ザンギー]]がアレッポに入った後である。
 
 
== シリア・セルジューク朝の歴代君主 ==