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'''トルイ家'''(トルイけ)は、[[チンギス・ハーン]]の四男[[トルイ]]から始まる家系である。
 
トルイはチンギスとその正妻[[ボルテ]]の間に生まれた末子だった。モンゴルでは[[末子相続]]が慣例となっており、またトルイは常にチンギスに従って軍略・政略を学んだ智勇兼備の名士であり、チンギス没後には慣例に従ってモンゴル本土とその軍団の大半を引き継ぎ、[[監国]]として政務を仕切った。しかしトルイは後継者の地位をすぐ上の兄である[[オゴデイ]]に譲り、自らは兄の配下となった。
 
トルイは[[三峰山の戦い]]など対[[金 (王朝)|金]]戦争などで多くの戦功を立て、トルイ家における強固な基盤を築き上げたが、[[1232年]]に病を得て急死した。家督は長男の[[モンケ]]が継いだが若年のため、正妻の[[ソルコクタニ・ベキ]]が家政を行ない、トルイ家は一時雌伏する。
 
オゴデイによる西征が開始されると、モンケは従軍し、[[ジョチ家]]の[[バトゥ]]と親密になる一方で[[オゴデイ家]]の[[グユク]]や[[チャガタイ家]]の[[ブリ (モンゴル王族チャガタイ家)|ブリ]]らと深刻な溝を築いてしまう。[[1241年]]にオゴデイが死去すると、モンケはバトゥと共に次の皇位の座を狙ったが、グユクらオゴデイ派の介入により頓挫してグユクが第3代皇帝となり、ジョチ家と共にまたも不遇な立場に置かれた。
 
しかし[[1248年]]にグユクが死去すると、モンケはバトゥと共に再び蠢動し、オゴデイ家やチャガタイ家を抑えて[[1251年]]に第4代皇帝となる。そしてオゴデイ家など反対派を粛清して強力な独裁権を手中にし、トルイ家の全盛期を創出した。
 
モンケは[[1259年]]、[[南宋]]攻略の最中である[[1259年]]に陣没した。その後、後継者の地位をめぐって共にモンケの弟である[[クビライ]]と[[アリクブケ]]による内戦を経て、クビライが第5代皇帝となる([[モンゴル帝国帝位継承戦争]])。クビライは[[1271年]]に[[元 (王朝)|元]]王朝を創した(以後は元王朝を参照)
 
また、モンケの系統は[[モンケ家]]となったが、モンケの没後は不遇であり、モンケの遺児[[シリギ]]は[[1276年]]に反乱を起こして鎮圧され、[[モンケ家]]は没落した。
 
クビライの系統は元朝が北走して[[北元]]になった後、[[トグス・テムル]]が[[アリクブケ家]]の[[イェスデル]]に殺されて消滅した。
 
モンケ・クビライの同母弟、アリクブケの同母兄である[[フレグ]]はモンケの命令で西アジアや[[歴史的シリア|シリア]]方面に進出し、[[アッバース朝]]を滅ぼすなどして[[イルハン朝]]を創した(詳細はイルハン朝を参照)。[[フレグ家]]の家系は[[1335年]]に断絶し、イルハン朝も[[1353年]]までに消滅した。
 
アリクブケは継承戦争に敗れて間もなく死去したが、その長男の[[ヨブクル]]はシリギと協力してクビライに反乱を起こした。前述したようにクビライ家にその後、1世紀を経て[[イェスデル]]がクビライ家に復讐している。また、フレグ家が断絶した後、一族からイルハン朝の君主となっている者も存在する。
 
このようにトルイ家はトルイの没後、その息子たちによって隆盛が築かれた。トルイは元朝において皇帝の父として「[[睿宗]]」の[[廟号]]を贈られている。
 
== 参考文献 ==