「メクレンブルク=シュトレーリッツ」の版間の差分

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公国は1808年に[[ライン同盟]]に加盟し、ウィーン会議では本家筋のメクレンブルク=シュヴェリーン公国と一緒に大公国に昇格、[[ドイツ連邦]]の一員となった。メクレンブルクはそのまま1867年には[[北ドイツ連邦]]、1871年には[[ドイツ帝国]]の構成国となった。メクレンブルク地方の分裂は1918年に君主制が廃止された後も続いていたが、1934年1月1日にメクレンブルク=シュトレーリッツ自由州が隣接するメクレンブルク=シュヴェリーン自由州{{enlink|Free State of Mecklenburg-Schwerin|a=on}}と合併してメクレンブルク[[大管区 (ナチ党)|大管区]]を構成したことで再統一された。両メクレンブルク地域は現在、ともに[[メクレンブルク=フォアポンメルン州]]の一部を構成している。
 
== 継承問題 ==
[[第1次世界大戦]]の終結と同時にドイツの君主制が廃止される直前、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公家は断絶の危機に見舞われた。当時の大公家には若く独身の大公[[アドルフ・フリードリヒ6世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|アドルフ・フリードリヒ6世]]、大公家の推定相続人である[[カール・ミヒャエル・ツー・メクレンブルク|カール・ミヒャエル]]公しか大公位継承者がおらず、しかも[[ロシア]]生まれのカール・ミヒャエルはロシア軍に従軍していた。カール・ミヒャエルは1914年、ドイツとロシアが交戦する前にメクレンブルク国籍を捨ててロシア国籍を取得していた。1918年2月23日にアドルフ・フリードリヒ6世が自殺を遂げると、大公家の相続人はカール・ミヒャエルとなったが、ロシアにいたカール・ミヒャエルは即位できなかった。そこで彼は本家のメクレンブルク=シュヴェリーン大公[[フリードリヒ・フランツ4世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ4世]]に対して、シュヴェリーン大公が摂政としてシュトレーリッツ大公国を統治することを要請し、また自身の大公位継承権を放棄したい旨を書いた手紙を送ったが、この手紙が届いたのはドイツが共和制に移行した1919年になってからであった。このため、シュトレーリッツの継承問題は解決されないままとなった。
 
== 君主制廃止後 ==
現在のメクレンブルク=シュトレーリッツ家は、カール・ミヒャエルの兄ゲオルク・アレクサンダー([[:ru:Георгий Георгиевич (герцог Мекленбург-Стрелицкий)|ru]])が[[貴賤結婚]]でもうけた息子[[ゲオルク・ツー・メクレンブルク|ゲオルク]]の直系が続いているのみである。ゲオルクはカーロー伯爵として生まれたが、1928年に叔父カール・ミヒャエルの養子となり、後にメクレンブルク=シュヴェリーン大公[[フリードリヒ・フランツ4世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ4世]]より「メクレンブルク公」の称号と「[[:en:Serene Highness|Serene Highness]]」相当の敬称を認められている。メクレンブルク=シュヴェリーン大公家は後にゲオルクに対してより上位の「[[:en:Highness|Highness]]」相当の敬称を贈った。メクレンブルク=シュトレーリッツ家の現在の家長はゲオルクの孫[[ボルヴィン・ツー・メクレンブルク|ボルヴィン]]である。