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{{otheruses|日本の「国柄」や「天皇が統治するの国家体制」としての国体}}
'''国体'''(こくたい)とは、本来は[[政体]]を意味する語であるが、通常は[[日本帝国憲法]]日本で使われた、国柄」や「[[天皇]]が統治する政体」を意味する語なっている。
 
== 概要 ==
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このほか「国体思想」の要素として、
* '''神国思想''':日本の国家と皇統は神々に由来し、日本は神々に守護されているという信仰。特に昭和戦中期ファシズム時代には天皇を[[現人神]]と仰いだ(『国体の本義』・[[修身]]の教科書など)。神国思想は、[[大東亜戦争]]で敗北した為崩壊したとする論者もある。
* '''皇国史観''':天皇を中心とする日本の国の歴史を称揚する歴史観。
* '''国民道徳論''':忠君報国や親孝行などを日本の古来からの道徳として称揚する([[教育勅語]]など)。
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などが挙げられる。
 
近代に入ってからは、英米系の[[コモン・ロー]]の考えを元にした保守主義の法哲学・公法学・[[憲法]]論の立場から、以下のような主張もなされている。国体は、建国以来[[不文憲法]]の根拠として存在してきた。[[明治1889年]]になって制定された[[大日本帝国憲法]]は、この[[不文憲法]]の根拠である国体を根底にし、主に伊藤博文が海外視察によって影響を受けた[[ドイツ帝国]][[ベルギー王国]]の[[憲法]]を参照して構成されたものである。「国制」即ち、国を治める形、国家意思決定過程の定めを意味するverfassungの語を、当初「国憲」と訳していたことからも明らかなように、自然国家としての連続性を意味する国体の表出が、不文成文の憲法であるという相関関係にあるともいえる。[[憲法]]思想的には、[[日本]]の[[コモン・ロー]]をベースにしており、[[英国憲法]]とその法位相を同じくするものである。
 
「国体」は正字体では「國體」と書き、古くから漢籍に見える。「国体」の文字は『管子』君子篇では「国を組織する骨子」の意味で、『春秋穀梁伝』では「国を支える器」の意味で用いられている。古代日本でも『出雲国造神賀詞』に「国体」と書いて「クニカタ」と読む言葉があり「国の様子」を意味している。
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国家観の意味で「国体」の語が用いられるようになったのは江戸後期以降であるが、それ以前にも国体の萌芽となる思想はあらわれていた。そのひとつは、日本を神々の国であるとする神国思想、もうひとつは皇位の血統性を強調する皇国思想である。
 
== 記紀 前史==
=== 記紀 ===
『[[古事記]]』・『[[日本書紀]]』は、日本の国家と皇室の由来を語りおこしており、それ自体が神国思想といえる。一方、皇位の血統的連続性を直接明言する記述は少なく『日本書紀』の一書(別伝)に[[天壌無窮の神勅]]がみられる程度である。これは、天皇の先祖が高天原から降下したという[[天孫降臨]]において、天降りする孫に[[天照大神]]が与えたとされる言葉である。皇位の栄えは天地とともに無限であろう、と言祝(ことほ)ぐ。昭和戦中期ファシズム時代に強調された言葉ではあるが、『日本書紀』の本文では採用されておらず、編纂時に強調されていなかったようである。ただし、『[[古事記]]』・『[[日本書紀]]』はその全体が、皇統の系譜を叙述の規範としており、皇位の血統的連続性いわゆる[[万世一系]]を前提とした史書である。
 
=== 古代 ===
一説には、[[雄略天皇]]は、中華皇帝から倭王に封じられた最後の天皇であり、これ以降、歴代天皇は中華皇帝に臣下の礼をとらなくなる。[[雄略天皇]]はまた国内では「治天下大王」を名乗り、自己より上位の権威を認めない姿勢を示した。
 
武烈天皇の崩御に伴って、大和の有力豪族たちは皇族を遠く北陸からむかえ皇位に推戴した。これが[[継体天皇]]である。こうした有力豪族たちの行動は、皇位には何よりも血統性が重要であるという一種の信仰を背景としたものであり、日本独自の国体観の始まりといえる。
* [[十七条憲法]](注、官民に対する教諭書的性格が強く、現在の「憲法」の概念とは異なる。)
* 「日の出づる処の天子」(607年、推古天皇15年、[[聖徳太子]]が[[隋]]の皇帝に送ったとされる親書の一節。)[[頼山陽]]は『[[日本楽府]]』の冒頭の詩「日出処」で、「日の出ずる処、日の没する処」を[[易姓革命]]による中華王朝の存亡流転に対比して、[[万世一系]]の皇統を護る日本の国体の永久不変を常昇する東海の一輪の太陽に例えた。翌年の608年、推古天皇15年、遣隋使小野妹子の携えた国書に、「東の天皇、敬みて西の皇帝に曰す。」とある。『[[日本書紀]]』
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* [[王土王民思想]]([[律令制]]参照。)
 
=== 中世 ===
中世の体制は、皇室・摂関家・大寺社・将軍家などの[[権門勢家]]が縦割りで支配するものであり、権門勢家間の垣根を越えて日本国の一体感を強調する目的で神国思想が持ち出されることがあった。特に、[[元寇]]など日本の国防上の危機感が高まったときに神国思想が強調された。
 
[[朱子学]]が鎌倉後期に日本に伝来すると、その正統主義、尊王斥覇の思想が日本の国体観に加わった。
 
[[後醍醐天皇]]は鎌倉幕府を打倒し天皇親政を試みた。鎌倉幕府の倒壊から南北朝時代を物語る『[[太平記]]』は、[[楠木正成]]などの[[南朝 (日本)|南朝]]方武将を好意的に描き、後の歴史観に大きな影響を残した。また南朝方の有力公家[[北畠親房]]は南朝の正統性を主張するために歴史書『[[神皇正統記]]』を著し、皇国史観の元祖となった。又、戦国時代末期には、[[豊臣秀吉]]が外国宛書簡で神国思想が表明された。これは、江戸徳川幕府を樹立した[[徳川家康]]にも継承された。
 
==江戸=徳川時代===
江戸徳川時代に入ると学者による論説が登場した。これには儒学者の流れと国学者の流れがある。
 
[[儒学者]]流では、[[山崎闇斎]]とその学統が有名である。山崎闇斎は神儒一致(神道と儒教との一体化)の[[垂加神道]]を唱え、その弟子[[浅見絅斎]]は『靖献遺言』を著し尊皇思想の源流となった。闇斎は、皇統はそれ自体が道の存在を示しており、さらには天皇こそが儒教的な人倫の道の体現者であるとした。一説には、孫弟子の栗山潜峰(1671‐1706)は、国体の語を日本独自の国家観の意味で初めて用いたといわれている。
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一方、[[国学者]]流では[[本居宣長]]の影響も大きい。ほとんど読めなくなっていた『[[古事記]]』の解読にほぼ成功して、神国思想を強調した。
 
「国体」の語を用いた国家論が本格的に始まるのは、[[水戸学]]以降である。[[会沢正志斎]]は著書『新論』(1825年)の冒頭で国体と題した章を設けて尊皇攘夷を論じた。また、[[藤田東湖]]が起草し同藩主[[徳川斉昭]]が撰文した『弘道館記』(1837年)は「国体以之尊厳」と刻み、日本の道徳が皇統に由来することを説いた。これら水戸学者の著作は幕末の志士たちの間で広く読まれたことから、「国体」の語が一般に通用するとともに、水戸学流の国体観念が明治維新の原動力となる。
国体の語を用いた国家論が本格的に始まるのは江戸後期の[[水戸学]]からである。
[[会沢正志斎]]は著書『新論』(1825年)の冒頭で国体と題した章を設けて尊皇攘夷を論じた。また、[[藤田東湖]]が起草し同藩主[[徳川斉昭]]が撰文した『弘道館記』(1837年)は「国体以之尊厳」と刻み、日本の道徳が皇統に由来することを説いた。これら水戸学者の著作は幕末の志士たちの間で広く読まれたことから、「国体」の語が一般に通用するとともに、水戸学流の国体観念が明治維新の原動力となる。
 
[[吉田松蔭]]は『講孟余話』を著して日本固有の国体を強調した。長州藩の老儒[[山県太崋]]がこれを批判し、両者の間で論争になった。後、吉田松蔭門下から明治政府の高官となった者が多く、吉田松蔭の国体観が明治国家に与えた影響は大きい。
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: なお、この頃の「国体」の語の用法にはブレがあり、例えば、国が鎖国から開国に転じることを「国体変革」と呼んでいる事例や、幕藩体制を「国体」と称している例がある。[[島崎藤村]]の『夜明け前』(第一部下12章5節)には松平容堂は薩長の態度を飽き足りないとして、「一新更始の道を[[徳川慶喜|慶喜]]に建白した(中略)。天下万民と共に公明正大の道理に帰り、皇国数百年の「国体」を一変して、[[王政復古]]の業を建つべき一大機会に到達したと力説した。」とある。これは「国体」の語を広く国家体制の意味で用いていることによる。
 
==戦前本史==
===明治国家と維新から明治憲法施行まで===
[[加藤弘之]]は『国体新論』を著して「人民を以て独り天皇の私有臣僕となすが如き」「従来称する国体」は「野鄙陋劣」であると批判し、「欧州の開明論」による「国家君民の権利義務」の理が「公明正大なる国体」であると主張した。これは明治政府の一部から批判を受けたため、加藤弘之は著書を自ら絶版するとともに、思想を転向し、社会進化論に基づき明治国家を擁護するようになる。
 
{{和暦|1876}}年(明治9年)、[[元老院 (日本)|元老院]]に憲法起草を命じる勅語は「我が建国の体に基き広く海外各国の成法を斟酌して以て国憲を定めんとす」としており、「建国の体」即ち国体に基づいた憲法が要求された。これを受けて元老院が作成した憲法案は、[[伊藤博文]]に「各国の憲法を取り集めて焼き直ししただけであり、我が国体人情等に少しも注意したものとは察せられない」と反対され、廃案になった。
 
1881年(明治14年)10月12日に、次のような国会開設の勅諭が発された。
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奉勅 太政大臣 三条実美」
 
この勅諭においては「立国の体」即ち国体のそれぞれの国における固有性と、当時の国家一大事業として「立憲の政体を建て」る事の弁別が既に明確となっている。憲法起草を命じられた伊藤博文は欧州で憲法調査を終えて帰国した後、1884年、閣議の席上で「憲法政治を施行すれば、おのずから国体が変換する」と演説した。伊藤の部下であった[[金子堅太郎]]は伊藤を批判して「上に万世一系の天子が君臨するというこの国体にはなんらの変換もありませぬ。閣下は国体と政体との意味を取り違えておられる」と主張。伊藤は「国会を開いて政体を変えればこれも国体変換ではないか」と反駁したものの、これ以降国体変換を口にすることはなくなった。[[大日本帝国憲法]]制定後、伊藤の私著の形で刊行された半公式注釈書『[[憲法義解]]』では「我が固有の国体は憲法によってますます鞏固なること」を謳った。
 
* [[福澤諭吉]]『帝室論』
* [[井上毅]]のシラス論
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[[上杉慎吉]]は「[[天皇]]ノ[[主権者]]タルコトハ我ガ[[日本]]ノ国体ニシテ、[[人民]]ガ主権タルハ[[アメリカ合衆国]]ノ国体ナリ」 <ref>[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=43000673&VOL_NUM=00000&KOMA=47&ITYPE=0 上杉慎吉『帝国憲法』(1924年)大正13年度東京帝国大学講義 謄写版]</ref>と述べている。
 
東京帝国大学で憲法学を教授していた[[筧克彦]]法学博士は、貞明皇后に「古神道及び国体学」に関し皇后宮にて進講。御進講録「神ながらの道」は皇后宮職より公刊。また昭和101935文部省開催の、憲法講習会の講演録「大日本帝國憲法の根本義」を文部省憲法教育資料中の1冊として上梓。同書には以下のようにある。
*「皇国神ながらの御主人様。御親様の御威力と皇国大生命の力とは不二たることを貴き性質とする。」
*「天皇様と国家とはもと二元的に相対立せる存在ではなく、神代ながらに不二である。 皇国は、天孫(皇孫)天降りによりて開かれ。開かれし当初より一生命、一徳、一統治権。」「引用は『大日本帝國憲法の根本義』皇学会、1936年。による。」
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[[民本主義]]の主唱者[[吉野作造]]は「君民同治を理想とする所の民本主義の政治は、…寧ろ国体観念を鞏固にするものである。」(「民主主義と国体問題」『大学評論』1917年)と述べ、憲法学者[[美濃部達吉]]は「政治上の意義に於ての民主主義は…毫も我が国体に抵触するものではなく、却って益々国体の尊貴を発揮する所以である。」(「近代政治の民主的傾向」『太陽』1918年)と主張した。明治期にはキリスト教を排撃していた[[井上哲次郎]]も、「日本の国体は万世一系の皇統を中心として来れるもの、日本は君主国にして民本主義を取れり、君主主義と民主主義との調和を保てるものにして其所に我国体の安全は存す」(『我国体と世界の趨勢』)と、民主主義に寄る姿勢を示した。
 
{{和暦|[[1921}}年]]([[大正]]10年)、[[内務省 (日本)|内務省]]神社局は『国体論史』を出版し、国体論の歴史を概観するとともに、「神話はその国民の理想、精神として最も尊重すべし。それは尊重すべきのみ、これを根拠として我が国体の尊厳を説かんと欲するは危し。先入主として、これらの『国造り説』と相容れざる進化学上の知識を注入せられおる国民はあるいはこれを信ずる事をえざるが故なり」とした。内務省神社局がこのような見解を示していたことは注目される。
[[内務省]][[神社局]]局長であった[[水野錬太郎]](内務大臣・文部大臣・神職会会長等も歴任。「天皇の政治利用」だと非難されて文部大臣辞任に追い込まれた。[[水野文相優諚問題]]参照。)は「日本の[[仏教]]は早くから国体精神と同一化し、[[儒教]]も、もとより国体精神と同一化してをり、そのほか外国の新文明新思想も国体精神と一致しつつあるもので、外来の思想を論難したり議論すべきでない」 <ref>『水野博士古稀記念 論策と随筆』水野博士古稀祝賀会事務所刊、1937年。</ref>と述べている。
 
===ファシズム時代===
==== 治安維持法 ====
{{和暦|[[1922}}年]](大正11年)、共産主義インターナショナル[[コミンテルン]]は日本の君主[[共和廃止]]への移行をテーゼに掲げた(日本共産党においてはこの22テーゼは草案段階に終わるが)。このような国体変革を狙った外国勢力主導の動きに対して、1925年(大正14年)公布の[[治安維持法]]は「国体の変革」を目的とした結社を禁止し、さら[[田中義一]]が主導した[[1928年]](昭和3年)の法改正で最高刑が死刑に引き上げられた。治安維持法でいうところの「国体」は大審院判決によれば「我帝国は万世一系の天皇君臨し統治権を総覧し給ふことを以て其の国体と為し治安維持法に所謂国体の意義亦此の如くすへきものとす」(大判昭和4年5月31日刑集八巻317頁)とされた。治安維持法により共産、民化運動や共和制運動が厳しく弾圧されるとともに、この頃から「国体の変革」が言語的タブーとなる。
 
==== 国体の名を借る政争 ====
{{和暦|[[1927}}年]]、新たに結成された[[立憲民政党]]が政綱に「議会中心的主義」と掲げたのに対し、翌年、その対立政党である[[立憲政友会]]の[[鈴木喜三郎]](当時内相)は「議会中心主義などという思想は、民主主義の潮流に棹さした英米流のものであって、わが国体とは相容れない」(大阪朝日新聞1928年2月20日)と批判。逆に、政友会内閣が締結した[[パリ不戦条約]]に「人民の名において」という文言があったのをとらえて、野党民政党はこれを国体に反するものとして論難した。
 
==== 国体明徴運動 ====
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* 大東亜戦争終結ノ詔書[[終戦詔書]]「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」{{和暦|1945}}8月14日
 
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* 憲法改正審議における政府答弁「御誓文の精神、それが日本国の国体であります。」「日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。」「日本においては他国におけるがごとき暴虐なる政治とか、あるいは民意を無視した政治の行われたことはないのであります。民の心を心とせられることが日本の国体であります。故に民主政治は新憲法によって初めて創立せられたのではなくして、従来国そのものにあつた事柄を単に再び違った文字で表わしたに過ぎないものであります。」(以上吉田茂)「日本の国体というものは先にも申しましたように、いわば憧れの中心として、天皇を基本としつつ国民が統合をしておるという所に根底があると考えます。その点におきまして毫末も国体は変らないのであります。」「稍々近き過去の日本の学術界の議論等におきましては、その時その時の情勢において現われておる或る原理を、直ちに国体の根本原理として論議しておった嫌いがあるのであります。私はその所に重きを置かないのであります。いわばそういうものは政体的な原理であると考えて居ります。根本におきまして我々の持っておる国体は毫も変らないのであって、例えば水は流れても川は流れないのである。」(以上金森徳次郎国務大臣、昭和21年6月25日衆議院本会議答弁)
 
* [[尾高・宮沢論争]]
* 共産主義運動による[[天皇制]]反対の名による皇室制度・[[政体]]・国体への批判
共産主義インターナショナル[[コミンテルン]]1932年テーゼはドイツ語のMonarchieで我が国の[[政体]]を規定。君主制の転覆を指令した。日本共産党はこれを天皇制と翻訳。天皇制への反対の主張を抱くも、戦前即ち帝国時代には、一般には天皇制反対の主張及び天皇制の語は普及せず、[[民主主義]]と[[共和制]]を目指す運動は烈なかっく弾圧された。帝国日本の敗により、米軍を主力とする連合軍による占領によりが始まると、日本共産党指導部は釈放され、[[民主化]]が始まり、[[国民主権]]を明記した[[日本国憲法]]が施行された。それにともない、共産主義思想・民主主義思想・共和主義思想の影響下に、学術研究、言論、社会運動場裏における天皇制の語は一般化し。「天皇を中心とする国家体制」を否定的にとらえる論者の間では広く用いられる。
日本共産党及び同党の周辺知識人の主張によると、国体には「ほとんど同義」 <ref>『社会科学総合辞典』新日本出版社、1992年、189頁、「国体」の項。</ref>の語に天皇制がある。[[日本共産党]]、[[新日本出版社]]、参照。
*:{{和暦|[[2004}}年]]に、日本共産党は綱領を改定「現行、2009年現在」天皇制について、綱領では、「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではない。」「国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の[[政治体制]]の実現をはかるべきだ」という方針をうちだしている。「尚、wikipediaの天皇制の項目は政体のカテゴリーに分類されており、本項目、国体には、直接の関係をもたないが参考まで。」日本の場合は主に[[共産主義]]勢力から「天皇制ファシズム」と称されることがある<ref> [http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/tanaka1930.htm 日本反帝同盟の研究-共産主義運動と平和運動『1930年代日本共産党史論』の第2章 田中真人]</ref><ref>『社会学小辞典』(有斐閣・1982年・増補版)の「天皇制ファシズム」の項には〈日本の場合、イタリアやドイツなどのような「下から」の運動による国家権力の掌握ではなく、天皇制国家権力自体が「上から」なし崩し的にファシズム化していったので、天皇制ファシズムと呼ばれる。〉とある。</ref>([[天皇制ファシズム]]参照)。
* 国体の言語タブー化。本来の大和言葉、国柄(くにがら)への言換え。
* [[国旗国歌法]]案の国会審議において、国歌の君が代の意味を質された政府は「国歌君が代の『君』は日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指しており、君が代とは、日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことであり、君が代の歌詞も、そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解することが適当である」(平成11年6月29日衆議院本会議小渕総理)と答弁。
* 「天皇を中心とした神の国」発言([[神の国発言]])。内閣総理大臣[[森喜朗]]は、{{和暦|[[2000}}年]][[5月15日]]東京都内[[神道政治連盟]]国会議員懇談会の結成30周年記念祝賀会で「今、私は政府側におるわけでございますが、若干及び腰になる事をしっかりと前面に出して、日本の国、まさに天皇を中心としている[[神国|神の国]]であるぞ、ということを国民の皆さんにしっかりと承知をして載く、その思いでですね、私達が活動して30年になったわけでございます。比較的私達の同期というのはしぶとくて、結構国会に残っておりますのは、神様を大事にしているから、ちゃんと当選させてもらえるんだなあと思っているわけでございます。」と発言した。{{main|神の国発言}}
 
== 注 ==
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{{DEFAULTSORT:こくたい}}
[[Category:国家論]]
[[Category:日本の政治史天皇制]]
[[Category:戦前日本の政治]]
 
[[de:Kokutai]]