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[[八月十八日の政変]]後、勤王党は失速。武市が土佐に戻ると以蔵は土井鉄蔵と名を変え、一人京都に潜伏した。しかし[[元治]]元年([[1864年]])6月頃、[[幕吏]]に捕えられ入墨のうえ京洛追放、同時に土佐藩吏に捕われ国元へ搬送される。土佐藩では[[吉田東洋]]暗殺・京洛における一連の暗殺について土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられ、上士格の武市瑞山を除いて厳しい[[拷問]]を受けた。以蔵も過酷な拷問に耐えたが、遂に全てを白状し、[[慶応]]元年([[1865年]])5月11日に[[打ち首]]、[[晒し首]]となった。辞世の歌は「''君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき'' 」<ref>佐佐木高行著、東京大学史料編纂所編『保古飛呂比 佐佐木高行日記』第2巻 p172</ref>。
 
墓所は[[高知県]][[高知市]][[薊野駅]]近郊の[[真宗寺]](しんしゅうじやま)にある累代[[墓地]]。俗名・岡田宜振として埋葬されている。
 
== 人物 ==