「小室信介」の版間の差分

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== 経歴 ==
砲術家・[[小笠原忠四郎]]の第二子として生まれる。藩校[[礼譲館]]に学び、{{和暦|1867}}、同藩助教に補せられる。廃藩後、{{和暦|1872}}から{{和暦|明治|8}}まで京都府綴喜郡井出村の小学校教員を務める。{{和暦|明治|8}}、宮津において地元有志と共に「[[天橋義塾]]」を設立したが、同年岩滝村出身の豪商[[小室信夫]]の養子となり、その長女幸子と結婚。{{和暦|明治|9}}には宮津を離れて上京し、6月小室信夫が保証人となり[[慶應義塾]]に入塾した。在塾当時の勤怠表では「小室信介 出席割合 100」とある。なお、養父・小室信夫は[[民撰議院設立建白書]]に[[板垣退助]]ら4人の旧参議と共に署名した一人であった。
 
{{和暦|明治|10}}に[[西南戦争]]が始まると高知に戻る板垣らと同船して宮津に帰ったが、同年末には同志と共に国事犯の嫌疑を受けて一時拘束された。{{和暦|明治|12}}には[[大阪日報]]の記者となり、日本立憲政党(総裁、[[中島信行]])の機関紙『日本立憲政党新聞』と改名以降も関係を保ち、関西における自由民権運動の雄となった。{{和暦|明治|16}}、同党解散後に上京して自由新聞の社員となり、[[星亨]]の出資によって{{和暦|明治|17}}に創刊された『[[自由燈]]』の編集にあたり、その一方で{{和暦|明治|15}}には韓国視察を行い、{{和暦|明治|17}}には[[甲申事変]]の処理のために渡韓する全権大使[[井上馨]]に外務省奏任御用掛として随行し、帰国後も滞在。
 
== 著書 ==
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|editor=慶應義塾史事典編集委員会編|year={{和暦|2008}}|month=11|title=慶應義塾史事典|publisher=慶應義塾大学出版会|isbn=978-4-7664-1572-8|url=http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766415728/}}
 
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{{DEFAULTSORT:こむろ しんすけ}}
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[[Category:日本の官僚 (1868-1949)]]
[[Category:日本のジャーナリスト]]
[[Category:自由民権運動の人物]]
[[Category:慶應義塾の塾生]]
[[Category:丹後国の人物]]
[[Category:自由民権運動の人物]]
[[Category:日本の官僚 (1868-1949)]]
[[Category:日本のジャーナリスト]]
[[Category:1852年生]]
[[Category:1885年没]]