「三方楽所」の版間の差分

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しかし[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の動乱を経てさまざまな変遷があり、三方楽所の楽家としては右の表にあげるような各家があった。この頃になると、父子相伝による家芸の曲目以外に、必要によって他家から一代相伝を受けて演奏するということがされるようになる。この場合の相伝というのは、具体的な技能の教授ではなく、むしろ演奏権を授ける意味である。この権利の背景には宮廷権威があり、代々楽所別当・楽奉行を務めた[[四辻家]]がこれを取り仕切った。四辻家は[[和琴]]を家芸とする[[羽林家]]であり、[[地下人|地下]]である三方楽人が和琴を弾奏する場合には、その都度その日かぎりの一日相伝を受けていた。
 
[[元禄]]期までは楽家以外の一般の弟子を取ることは申し合わせにより禁じられていた。しかしさらに時代が下って[[化政文化]]のころには、豊原家・芝家・辻家といった古来からの楽家から下級楽人の家々にいたるまで、多くの門人を抱えるいわゆる[[家元]]になっていった。これは楽家の収入が石高制であり、幕府や諸藩と同様に飢饉や物価上昇のあおりを受けて困窮したことに対する打開策と考えることができる。門人は武士や僧侶が多かったが、町人や農民も1~2割を占めていた。ただし明治になって一般の弟子を取ることを禁じられた時期があり、また雅楽が宮内省で集中的に管理されたこともあって、こうした家元制度は現代には続いていない
また江戸時代後半には[[近世邦楽]]特に[[箏曲]]の[[作曲家]]が雅楽を取り入れた曲を作るようになる。江戸の[[山田検校]]や名古屋の[[吉沢検校]]が特に有名であるが、吉沢は雅楽家に実際に楽箏を習い、その奏法や調弦、理論を取り入れて新しい箏曲のスタイルを切り開いた。名曲として名高い[[千鳥の曲]]をはじめとする[[古今組]]、[[古今新組]]九曲がそれである。
ただし明治になって一般の弟子を取ることを禁じられた時期があり、また雅楽が宮内省で集中的に管理されたこともあって、こうした家元制度は現代には続いていない。
 
== 三方及第 ==