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'''藤原 山蔭'''(ふじわら の やまかげ、[[824年]]([[天長]]元年) - [[888年]][[3月20日]]([[仁和]]4年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]))は、[[平安時代]]前期の[[公卿]]。[[藤原北家]][[藤原魚名|魚名]]流。[[藤原高房]]の次男。[[従三位]]、[[中納言]]、[[民部卿]]。「山陰」と表記される場合もある。
 
==経歴==
[[仁寿]]4年([[854年]])の[[左馬大允]]を振り出しに諸官を歴任後、[[清和天皇]]の[[蔵人]]となってその側近として活躍して[[貞観_(日本)|貞観]]17年([[875年]])に[[蔵人頭]]、2年後に[[右大弁]]となった。清和天皇が退位すると、引退を決意するが[[陽成天皇]]に慰留されて[[元慶]]3年([[879年]])に[[従四位上]][[参議]]、3年後には[[左大弁]]となり、仁和2年([[886年]])従三位中納言となった。{{要出典範囲|また、清和上皇の[[崩御]]に至るまで、清和上皇の院司を務めていたと思われる。}}
 
[[四条流庖丁道|四条流庖丁式]]の創始者で知られている。これまで[[磐鹿六雁命]]の末裔[[高橋氏]]が[[庖丁式]]を執り行っていたが、[[光孝天皇]]の命により今までとは別の新たな庖丁式([[料理]])を編み出した。
 
また[[十九奉幣社]]のひとつ[[吉田神社]]と[[真言宗]][[西国三十三箇所観音霊場]]・二十二番札所[[總持寺 (茨木市) |總持寺]]を建立・創建している。