「フリッツ・シュタインバッハ」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[バーデン]]の音楽家の家庭に生まれる。[[ライプツィヒ音楽院]]に学んだ後、[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン音楽院]]で[[グスタフ・ノッテボーム]]に[[音楽理論]]と[[対位法]]を、[[アントン・ドーア]]に[[ピアノ]]を師事。[[1874年]]から[[1878年]]まで[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]・[[モーツァルト]]基金の[[奨学生]]に選ばれた。当初は作曲家として活動したが、1879年に[[マインツ]]で[[楽長|副楽長]]に任命されて指揮者としての活動が軌道に乗り始める。その後はフランクフルトで、作曲や対位法の教師として[[ヨアヒム・ラフ]]の[[ホーホ音楽院|音楽院]]に勤めた。
 
[[1886年]]に、[[リヒャルト・シュトラウス]]から[[マイニンゲン宮廷管弦楽団]]の[[宮廷楽長|楽長職]]を引き継ぐ。同楽団は、[[1881年]]から[[1885年]]まで、かつて楽長[[ハンス・フォン・ビューロー]]のもとで精鋭オーケストラに育て上げられていた。[[マイニンゲン]]でシュタインバッハは、ブラームスに密に協力し、188年から[[1896年]]までしばしばブラームスを、ザクセン=マイニンゲン侯ゲオルク2世や宮廷楽団の貴賓としてもてなした。シュタインバッハは最も名高いブラームス指揮者として名を揚げて、ブラームス作品をずば抜けて数多く上演した。そのためブラームスの確固たる地位がいっそう演奏界に築き上げられた。ブラームスの遺産が今日までマイニンゲンの街で特別に受け継がれているのは、シュタインバッハが土台を築いたからだった。