「法華一揆」の版間の差分

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'''法華一揆'''('''ほっけいっき''')とは、[[日本]]の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]](1532年・天文1年)の[[京都]]における宗教[[一揆]]。[[日蓮宗]]側では「'''天文法難'''」と呼び、一般には「'''天文法乱'''」とも呼ばれる。
 
==概要==
[[天文 (元号)|天文]]年間、[[京都]]では六条[[本圀寺]]などの[[日蓮宗]]([[法華宗]])寺院を中心に、[[日蓮宗]]の信仰が町衆の大半に浸透し、極めて強い勢力を誇るようになっていた。[[1532年]]([[天文 (元号)|天文]]元年)、[[浄土真宗|一向宗]]徒の入京の噂が広がり、[[日蓮宗]]徒の[[町衆]]は[[細川晴元]]・[[茨木長隆]]らの軍勢と手を結んで一向宗寺院を焼き討ちした。特に東山を隔てた[[山科盆地]]に、土塁に囲まれた伽藍と[[寺内町]]を構えていた一向宗の本拠である[[山科本願寺]]はこの際の焼き討ちで全焼した。この後、日蓮宗門徒は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大した。
 
しかし、日蓮宗の宗徒([[松本久吉]])が[[比叡山]]西塔の僧の説法を論破した('''松本問答''')のをきっかけとして、比叡山と日蓮宗の衝突に発展。[[1536年]](天文5年)、比叡山は日蓮宗が法華宗を名乗るのを止めるよう[[室町幕府]]に裁定を求めたが、幕府は[[後醍醐天皇]]の[[勅許]]を証拠にした日蓮宗の勝訴とした。しかし、幕府は敢えて日蓮宗に有利な裁定を出すことで、両者の対立を煽ったとする見方もある<ref>[[今谷明]] 『天文法華の乱―武装する町衆』</ref>。
この後、日蓮宗門徒は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大した。
 
しかし、日蓮宗の宗徒([[松本久吉]])が[[比叡山]]西塔の僧の説法を論破した('''松本問答''')のをきっかけとして、比叡山と日蓮宗の衝突に発展。[[1536年]](天文5年)、比叡山は日蓮宗が法華宗を名乗るのを止めるよう[[室町幕府]]に裁定を求めたが、幕府は[[後醍醐天皇]]の[[勅許]]を証拠にした日蓮宗の勝訴とした。しかし、幕府は敢えて日蓮宗に有利な裁定を出すことで、両者の対立を煽ったとする見方もある<ref>[[今谷明]] 『天文法華の乱―武装する町衆』</ref>。[[7月_(旧暦)|7月]]、[[天台宗]]比叡山の[[僧兵]]集団が「法華一揆」撃滅へと乗り出した。[[延暦寺]]([[山門]])全山の[[大衆_(仏教)|大衆]]が集合して京都洛中洛外の[[洛中法華21ヶ寺|日蓮宗寺院21本山]]に対して延暦寺の[[末寺]]になるように迫った(当時、有力寺院が周囲の他宗派の中小寺院に対して現在の宗派のままでの存続を許す代わりに上納金を納めさせて支配下に置き、末寺化していた)。だが、これを拒否されると、延暦寺は[[後奈良天皇]]や幕府に法華宗討伐の許可を求める一方で、[[越前国|越前]]の大名・[[朝倉孝景 (10代当主)|朝倉孝景]]を始め、敵対していた[[園城寺]]・[[東寺]]・[[興福寺]]・[[本願寺]]などの協力を求めた。いずれも援軍は断ったが、支持や中立を取り付けることには成功した。さらに[[近江国|近江]]の大名・[[六角定頼]]の援軍を得て、約6万の衆徒で京都市中に押し寄せ、京都洛中洛外の日蓮宗寺院21本山はことごとく焼き払われた('''天文法華の乱''')。更にその火が大火を招き、京都は延焼面積では[[応仁の乱]]に勝る被害を受けたとも言う。

こうして隆盛を誇った日蓮教団は壊滅し、宗徒は洛外に追放された。以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。[[1542年]](天文11年)に京都帰還を許す再勅許が下り、後に<!--ご存じの方、およその年代を-->[[洛中法華21ヶ寺|日蓮宗寺院15本山]]が再建された。
 
==脚注==