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'''実如'''(じつにょ、實如<ref name="kyuujitai"/>)は、[[室町時代]]中期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけての[[浄土真宗]]の僧。[[本願寺]]第9世。
 
== 生涯 ==
<span style="font-size:90%;">年齢は[[数え年]]。日付は文献との整合を保つ為、[[旧暦]](宣明暦)表示(生歿年月日を除く)とした。</span>
* 長禄2年8月10日(1458年9月26日<ref name="guregorioreki"/> )、本願寺第八世[[蓮如]]の第8子(五男)として誕生。母は、蓮祐尼(蓮如の2番目の夫人)。
* [[文正]]2年([[1467年]])、[[延暦寺]]から「仏敵」とされ京都を追われた父・蓮如がやむなく延暦寺に屈した時に蓮如の隠居と長男[[順如]]の廃嫡、そして当時光養丸と呼ばれていた実如への家督継承が強要されるが、本願寺の勢力回復とともに有耶無耶となり、元のように順如が法嗣とされた。
* [[文明_(日本)|文明]]15年([[1483年]])、長兄である順如の死没により改めて法嗣となる(そのため、法主が後継者指名に用いた[[譲状]]が実如には2枚存在する。)
* [[延徳]]8年([[1489年]])、父蓮如の退隠にともない、本願寺を継承し第九世となる。
** 継承後も、父蓮如により急激に拡大した教団を維持する必要があった。特に実如が重視したのは[[管領]][[細川政元]]との関係である。かつて[[加賀一向一揆]]が[[守護]][[富樫政親]]を攻め滅ぼした際に[[征夷大将軍|将軍]][[足利義尚]]が本願寺に討伐令を下そうとしていた折に政元がこれに強く反対して討伐令を撤回させたという経緯があったため、実如は大きな恩義を感じていた。
* [[明応]]4年([[1495年]])、加賀一揆の指導者で反政元派の[[河井宣久]]の粛清を容認する。
** 明応8年([[1499年]])[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]、蓮如歿。
* [[永正]]3年([[1506年]])、細川政元の要請を受けて[[畠山義英]]討伐への協力に応じると、[[畠山氏]]との関係が深かった[[摂津国|摂津]]・[[河内国|河内]]の門徒が猛反発し、実如の異母弟で畠山氏の血を引く[[実賢]](後に[[近江国]][[称徳寺]])を[[石山本願寺|石山御坊]]にて擁立して[[法主]]交替を求める。実如はこれを力づくで抑え込む(「大坂一乱」)。
* 永正4年(1507年)、[[細川澄之]]が政元を暗殺([[永正の錯乱]])して[[細川澄元]]と争うと、その争いに巻き込まれた実如は澄元により、一時[[山科本願寺]]を追放されてしまう。
 
* 長禄2年8月10日(1458年9月26日<ref name="guregorioreki"/> )、本願寺第8世[[蓮如]]の第8子(五(5男)として誕生。母は[[伊勢貞房]]の娘蓮祐尼(蓮如の2番目の夫人)。
この事態に苦慮した実如は、弟[[蓮淳]]・息子[[円如]]とともに北陸門徒に対し一揆の禁止をはじめとする3か条の戒めを発布したり、本願寺の一族を一門衆(嫡男)と一家衆(次男以下)に分ける一門一家制を設けたり、宗門信条の基本とするなどの策を講じた。
 
* 大永元年([[1521年]])、青蓮院脇門跡に任ぜられる。
* [[文正]]2年([[1467年]])、[[延暦寺]]から「仏敵」とされ京都を追われた父・蓮如がやむなく延暦寺に屈した時に蓮如の隠居と長男[[順如]]の廃嫡、そして当時光養丸と呼ばれていた実如への家督継承が強要されるが、本願寺の勢力回復とともに有耶無耶となり、元のように順如が法嗣とされた。[[文明_(日本)|文明]]15年([[1483年]])、長兄である順如の死没により改めて法嗣となる(そのため、法主が後継者指名に用いた[[譲状]]が実如には2枚存在する)。[[延徳]]8年([[1489年]])、父蓮如の退隠にともない、本願寺を継承し第九世となる
* 大永5年2月2日(1525年3月5日<ref name="guregorioreki"/> )、68歳にて示寂。
 
** 継承後も蓮如により急激に拡大した教団を維持する必要があった。特に実如が重視したのは[[管領]][[細川政元]]との関係である。かつて[[加賀一向一揆]]が[[守護]][[富樫政親]]を攻め滅ぼした際に[[征夷大将軍|将軍]][[足利義尚]]が本願寺に討伐令を下そうとしていた折に政元がこれに強く反対して討伐令を撤回させたという経緯があったため、実如は大きな恩義を感じていた。[[明応]]4年([[1495年]])、加賀一向一揆の指導者で反政元派の[[河合宣久]]の粛清を容認する。明応8年([[1499年]])[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]、蓮如歿
 
* [[永正]]3年([[1506年]])、細川政元の要請を受けて[[畠山義英]]討伐への協力に応じると、[[畠山氏]]との関係が深かった[[摂津国|摂津]]・[[河内国|河内]]の門徒が猛反発し、実如の異母弟で畠山氏の血を引く[[実賢]](後に[[近江国]][[称徳寺]]住持)を[[石山本願寺|石山御坊]]にて擁立して[[法主]]交替を求める。実如はこれを力づくで抑え込む(「大坂一[[享禄・天文の#河内国錯乱|河内国錯乱]])。
 
* 永正4年(1507([[1507]])、政元の養子・[[細川澄之|澄之]]が政元を[[暗殺]]([[永正の錯乱]])してもう1人の養子・[[細川澄元|澄元]]と争うと、その争いに巻き込まれた実如は澄元により、一時[[山科本願寺]]を追放されてしまう。
 
永正6年([[1509年]])に山科本願寺に復帰するが、この事態に苦慮した実如は、同母[[蓮淳]]息子[[円如]]とともに北陸門徒に対し一揆の禁止をはじめとする3か条の戒めを発布したり、本願寺の一族を一門衆(嫡男)と一家衆(次男以下)に分ける一門一家制を設けたり、宗門信条の基本とするなどの策を講じた。大永元年([[1521年]])、[[青蓮院]]脇門跡に任ぜられるが、同年に円如が急死、孫の[[証如]]が後継者となった。
 
大永5年2月2日(1525年3月5日<ref name="guregorioreki"/> )、68歳にて示寂。証如が後を継いだが、幼い証如に代わって蓮淳が後見人(証如の外祖父でもあった)として本願寺を取り仕切った。
 
{{Commons|Category:Jitunyo monk}}