「チャレンジャー号爆発事故」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Tosaka (会話 | 投稿記録)
en:Space Shuttle Challenger disaster18:01, 16 May 2010(UTC)版より、「1月28日、発射および事故発生」節内の「発射および上昇初期」節と「漏洩」節を再翻訳し、他も少しだけWikifyした。
1行目:
[[Fileファイル:Challenger explosion.jpg|thumb|right|220px|7名の宇宙飛行士が犠牲になった、チャレンジャー号爆発事故([[STS-51-L]])の瞬間]]
[[Fileファイル:Challenger flight 51-l crew.jpg|thumb|right|220px|STS-51-Lの飛行士。前列左から[[マイケル・J・スミス]]、[[ディック・スコビー]]、[[ロナルド・マクネイア]]。後列左から[[エリソン・オニヅカ]]、[[クリスタ・マコーリフ]]、[[グレゴリー・ジャービス]]、[[ジュディス・レズニック]]]]
'''チャレンジャー号爆発事故'''は、[[1986年]][[1月28日]]午前11時39分(16:39[[協定世界時|UTC]])、[[アメリカ合衆国]]の[[宇宙船]][[スペース・シャトル]][[ チャレンジャー (オービタ)|チャレンジャー号]]が発射から73秒後に空中で爆発的に崩壊し、七名の[[宇宙飛行士]]が犠牲になった事故である。機体の残骸は[[フロリダ州]]中部沖の[[大西洋]]上に飛散した。
 
== 事故の概略 ==
事故の原因は、右側[[スペース・シャトル固体燃料補助ロケット|固体燃料補助ロケット]](Solid Rocket Booster, SRB)の[[Oリング]]が低温により劣化したことであった。Oリングの裂け目から吹き出した高温・高圧の燃焼ガスがすぐ近くにある[[スペース・シャトル外部燃料タンク|外部燃料タンク]](External Tank, ET)との接続部分を直撃し、やがて接続部分が外れSRBの先端部がETと激突して、[[空気抵抗]]により[[オービタ|軌道船]]が崩壊した。
 
12行目:
[[STS-51-L]]は宇宙から地上の青少年に向けて授業をする「宇宙授業計画」の第一回の飛行であり、現役の高校教師[[クリスタ・マコーリフ]]が搭乗していたため、多くの人々が生中継で発射の映像を見ていた。メディアの報道は広範囲にわたり、ある調査では[[アメリカ人]]の85%が事故発生から一時間以内にこのニュースを知ったと言われている。チャレンジャー号爆発事故は[[危機管理]]や技術管理の題材として、多くの場面で取り上げられている。
 
== 発射準備段階の状況および発射の遅延 ==
[[Fileファイル:Ice on the Pad on the Day of STS-51-L's Launch - GPN-2004-00011.jpg|thumb|left|upright|発射一時間前、整備塔にこびりついた氷]]
当初の予定では、チャレンジャーは[[1月22日]]午後2時42分(米[[東部標準時]])にフロリダ州[[ケネディ宇宙センター]]から発射されるはずであった。しかしながらこの直前のSTS-61-Cの飛行が遅れたため、発射予定日は23日からさらに24日へと延期された。その後、飛行が中止された際の緊急着陸地点である[[セネガル]]の[[ダカール]]が悪天候であったため、発射日はさらに25日へとずれ込んだ。NASAは緊急着陸地点を[[カサブランカ]]の基地に変更したが、同施設には夜間着陸用の設備が整っていないため、発射時間をフロリダ時間の朝に変更した。ところがケネディ宇宙センター周辺の天候不順が予想されたため、発射時間はまたもや27日午前9時37分へと延期された。マルコルム・マッコーネル(Malcolm McConnell)の著書「チャレンジャー号の主な故障の原因(Challenger : A Major Malfunction)」によれば、通常ならばNASAは[[降水確率]]50%ならば打ち上げを決行していた筈だが、そうしなかったのは、[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ]][[ アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]が[[ホンジュラス]]に向かう途中で立ち寄って発射を見学する予定があったからだという。
 
20行目:
予報によれば、1月28日の朝は異常に寒く、発射台周辺の気温は射ち上げを実施可能な下限値である[[摂氏]]−1℃の近くまで下がるとされた。この異常寒波に対し、SRBの製造とメンテナンスを受け持つサイオコール社の技術者は懸念を抱いた。27日の夜、サ社の技術者と幹部は、ケネディ宇宙センターと[[マーシャル宇宙飛行センター]]にいるNASAの幹部と[[遠隔会議]]を開き、気象条件に関する討議を行った。何人かの技術者——中でも特に、以前にも同様の懸念を表明したロジャー・ボイスジョリー(Roger Boisjoly)——は、SRBの接合部を密封するゴム製Oリングの弾力性が異常低温によって受ける影響について不安を表明した。各SRBには6箇所の接合部があり、そのうちの3箇所は製造工場で[[溶接]]され、残りの3箇所はケネディ宇宙センターの[[スペースシャトル組立棟]] (Vehicle Assembly Building、VAB)で結合される。VABで結合される部分には、Oリングが二重に施されている(事故の後、三重に強化された)。全ての結合部は、固体燃料の燃焼で発生した高温・高圧の燃焼ガスが正常に[[ノズル]]から噴出されるよう、密封してガスの漏出を防ぐ必要がある。サ社の技術者は、もしリングの温度が摂氏12℃以下になった場合、気密性が正常に保てるかを判断するのに十分なデータを持っていないと論じた。これが重大な懸念だったのは、Oリングが「致命度1」に指定されていたからである――これはもし主および副リングが故障した場合はバックアップは無く、その故障は軌道船や乗組員を破壊しうることを意味していた。
 
サイオコールの主張に対するNASAの反論は、主リングが故障しても副リングが十分に密閉性を保ってくれるというものであった。だがこれは実証されたことはなかったし、またいかなる場合においても致命度1である重要部品については規定に違反する論法だった(ロジャー委員会に先立ってNASAの幹部を審問する際に[[サリー・ライド]]飛行士が引用しているが、致命度1である部品はバックアップに頼ることは禁止されている。この場合のバックアップ機器は不測の事態に備えて余裕を確保するための物で、主機を置換するための物ではない。そんなことをすればバックアップが無くなってしまう)。サ社の技術者は、昨夜来の低温によりSRBの温度は危険水準の4℃以下に達したと主張した。しかしながらこの警告は、発射を予定どおり進めるべきだとするサ社の幹部によって無視された<ref name="rogers 5">{{cite web| author=Rogers Commission report| title=Report of the Presidential Commission on the Space Shuttle ''Challenger'' Accident, Volume 1, chapter 5| year=1986| url=http://history.nasa.gov/rogersrep/v1ch5.htm | accessdate=2007-01-01}}</ref>。一般の人はNASAは常に[[フェイルセーフ]]の取り組みを続けているというイメージを抱いているが、サ社の幹部は、発射の状況が安全「である」と証明するのではなく安全「ではない」ことを示せというNASA幹部の要求に影響されていた。後に事故調査の中で、NASA幹部は発射のスケジュールを優先するために安全規定をしばしば無視していたという事実が明らかにされた。
 
低温により発射台の整備塔にはおびただしい量の氷が貼りついたため、対策チームが現場に急行した。その際、彼らがたまたま誤って[[赤外線]]カメラを右側SRBの後部接続部に向けたことにより、その部分の温度が−13℃にまで下がっていることが発見された。これは[[液体酸素]]タンクの排気弁から流れた極低温の酸素ガスが接続部分に吹きつけられたことが原因であると考えられたが、この温度はOリングの設計上の限界値を大幅に下回っていた。しかしながら後の調査では、−13℃という値は計測者が気温検知器の操作マニュアルに従わなかったため、誤って読み取られたものであると結論づけられた。またその後、接続部分の温度は外気温とさほど差はなかったことが明らかにされた<ref name="feynman 1">{{cite book | last = Feynman| first = Richard| title = What Do You Care What Other People Think| pages = 165–166 }}</ref>。
26行目:
対策チームは氷を除去するために徹夜で作業を続けていたが、シャトルの主契約企業である[[ロックウェル・インターナショナル]]の技術者たちは引き続き懸念を表明していた。[[カリフォルニア州]]ドウニー(Downey)にあるロ社本部からの書簡を受け取った彼らは、びっしりと貼りついた氷の映像を見て恐怖を抱いた。彼らが恐れていたのは、発射の際にSRBの排気ガスが引き起こす振動によって氷が振り落とされ、機体を直撃して耐熱タイルを傷つけることであった。この状況を発射台にほど近い[[ミッションコントロールセンター|管制室]]で見ていたロ社の宇宙輸送部責任者ロッコ・ペトローン(Rocco Petrone)と彼の同僚たちは、ケープ基地にいた同社の幹部たちにロ社としては発射を支持できないと語った。だが幹部たちはこれらの懸念をはっきりと言葉で伝えなかったため、計画責任者アーノルド・アルドリッチ(Arnold Aldrich)は飛行の続行を決定し、氷対策チームに他の検査をさせるために発射を一時間遅らせた。この検査をしている間に氷が溶けはじめていることが確認されたため、午前11時38分、チャレンジャー号の発射を決行することが最終的に決定された<ref name="rogers 5"/>。
 
== 1月28日、発射および事故発生 ==
=== 発射および上昇初期 ===
[[Fileファイル:STS-51-L grey smoke on SRB.jpg|thumb|left|右側SRBから漏れ出す燃焼ガス(画像右側に見える黒煙]]
以下の記述は、逐次[[遠隔測定法|遠隔測定テレメトリー]]で記録さによって得られたリアルタイムのデータ画像分析、また宇宙船および空中-地上間と管制室の間で交わされた更新交信記録に基づいている<ref name="timeline">A major source for information about the ''Challenger'' accident is the STS 51-L Incident Integrated Events Timeline developed by the NASA Photo and TV Support Team as part of the Rogers Report ([http://history.nasa.gov/rogersrep/v3appn.htm Appendix N]). Numerous other timelines have been written based on this information. A detailed transcript of air-to-ground and mission control voice communications was put together by Rob Navias and William Harwood for [[CBS News]], and integrates a timeline of events:{{cite web |year=1986|url =http://web.archive.org/web/www.cbsnews.com/network/news/space/51Lchap13timeline.html |title = Voyage Into History Chapter 13: The Timeline |publisher = [[CBS News]]| accessdate = 2007-08-22 | last=By William Harwood |quote=}}</ref>。すべての時間は発射の瞬間からの経過秒数を表し、それぞれの時点で行われた主要詳細計測事象から発生した出来事まきごとを示がテレメトリーのタイムコードに対応している<ref name="rogers n">{{cite web| author=Rogers Commission report| title=NASA Photo and TV Support Team Report, Report of the Presidential Commission on the Space Shuttle ''Challenger'' Accident, Volume 3, Appendix N| year=1986| url=http://history.nasa.gov/rogersrep/v3appn.htm | accessdate = 2007-01-01}}</ref>。
 
機体が発射台から離れる前であれば、必要があれば[[SSME|スペースシャトルのメインエンジン]]を安全に停止して発射を中止することができた。発射の瞬間(T=0:米国東部標準時午前11時38分)に3基のメインエンジンは設計性能値に対して100%に達しており、[[コンピュータ]]の制御によって104%まで推力が増されはじめていた。
機体が発射台から離れるまでは[[SSME|メイン・エンジン]]はいつでも安全に停止できるし、必要があれば発射を中止するとができる。発射の瞬間(午前11時38分)はSSME2基推力は100%に達しSRBが点火され、同時にSRBを発射台につなぎ止めていたボルトが[[爆薬]]によって切断される。SSMEの推力て、機体、その後[[コンピューター]]の制御発射台から自由より104%にまで上昇するなった。機体が離陸を開始す最初に垂直に動きはじめると、通常は気化[[水素]]排気アームが[[スペースシャトル外部燃料タンク|外部燃料タンク]]内の[[水素]]ガスを解放するための排気口のアームが機体 (ET) から引き離されるのだが、この時は留戻り止ラッチ完全に外れ機能しいまま上昇を始めてしまった。しかしながら事故後に発射台のカメラがとらえた映像を分析検証すると、このアーム機体には再び接触した事実確認されなかったためおらず今回ことは事故とは直接の関係する要素からないと結論づけら除外された<ref name="rogers n"/>。発射後に行われた発射台を調の検においても機体を固定てい結果、接続ボルトをはじき飛ばすバネの4つのキック・スプリング行方不明に見つけられていることが明らかにされたが、これも同様に事故の原因となった可能性ないと否定された<ref name="tv team">{{cite video | people= Photo and TV Analysis Team Report| title =[http://www.archive.org/details/ChallengerAccidentandInvestigation Space Shuttle Challenger Accident Investigation] | publisher = STS-51L Data and Analysis Task Force |date = 1986 | accessdate = 2007-01-01}}</ref>。
[[File:Challenger (STS-51-L) Liftoff.ogg|thumb|チャレンジャー号発射の動画(253kb, [[ogg]]/[[Theora]]フォーマット)]]
後の画像の分析によると、T+0.678(発射から0.678秒後の意。以下同様に記述)に右側SRBと外部燃料タンクの後部接続部分付近から黒煙が吹き出ていることが確認された。煙の噴出はその後何回かにわたって続き、最後に発生したのはT+2.733で、また最後に煙が目撃されたのはT+3.375であった。後にこれらの現象は、点火の際の内圧によって右側SRBの外殻が膨張し、接合部が開閉したことによって引き起こされたものであると結論づけられた。膨張によって金属製の外殻がたわんで隙間ができ、そこから2,800℃以上にもなる高温ガスが漏出したのである。この現象はそれ以前の飛行でも発生していたが、そのたびに第一Oリングが溝から外れることによって密閉性を確保していた。SRBは元々そのように設計されてはいなかったのだが、結果的にうまく機能していたことになる。そのためサイオコールは後に設計を変更し、押し出し加工と呼ばれる工法を採用してこの機能を取り入れることにした。
 
[[Fileファイル:Challenger (STS-51-L) Liftoff.ogg|thumb|チャレンジャー号発射の動画(253kb, [[ogg]]/[[Theora]]フォーマット)]]
だがこの時は、不運にもOリングが外れてシールを形成する前にガスが漏出したため、リングが損傷を受けてしまった。サ社の技術者の調査では、ダメージの大部分は溝から外れた瞬間に受けたものであると結論づけられた。これは低温によってOリングのゴムが硬化したため、膨張に要する時間が長くなったことが原因であった(この事故以後に使用されるようになった改良型SRBの接続部には、ガスの噴出を和らげるため三番目のリングと追加のほぞとほぞ穴が設置されるようになった)。
後に発射時の画像を分析すると、T+0.678(発射から0.678秒後)に右側SRBの、外部燃料タンクとSRB間を連結する後部接続支柱部近くからひと吹きの黒煙が吹き出ていることが確認された。煙のわずかな噴出は、最後はT+2.733に発生していた。最後に接続支柱周辺で煙が見えたのは T+3.375 であった。これらの噴出した煙は右側SRBの後部の現場接続部<!--"field joint"を現場接続部と訳した-->が開いたり閉じたりしたことで起きたと、後に結論づけられた。点火の圧力によってSRBの外殻が膨張し、その結果として外殻のこの金属部分が両側から曲がって分離し、開いた隙間から高温のガス(5,000度°F、2,800℃)が漏れたものである。
 
後の画像の分析によると、T+0.678(発射から0.678秒後の意。以下同様に記述)に右側SRBと外部燃料タンクの後部接続部分付近から黒煙が吹き出ていることが確認された。煙の噴出はその後何回かにわたって続き、最後に発生したのはT+2.733で、また最後に煙が目撃されたのはT+3.375であった。後にこれらの現象は、点火の際の内圧によって右側SRBの外殻が膨張し、接合部が開閉したことによって引き起こされたものであると結論づけられた。膨張によって金属製の外殻がたわんで隙間ができ、そこから2,800℃以上にもなる高温ガスが漏出したのである。この現象はそれ以前の飛行で発射時にも発生していたが、そのたびに第一O-リングが溝から外れることによって密閉性を確保していた。SRBは元々そのように設計されてはいなかったのだが、結果的にうまく機能していたことになる。そのためサイオコールは後に設計を変更し、押し出し加工と呼ばれる工法を採用してこの機能を取り入れることにした。
事故当日の朝、第一Oリングは低温により非常に硬化したため、密封が間に合わなくなった。また第二リングは金属部が膨張したことにより、正規の位置から外れてしまっていた。これによって燃焼ガスを食い止める手段は失われ、Oリングは70度の角度にわたって焼失したが、燃料の[[酸化アルミニウム]]のすすが穴をふさいだため、この後に炎の漏出が再発するまではすすがOリングの機能を代用することになった。
 
残念ながら、押し出されたリングが漏洩箇所を塞ぐまでの間、高温のガスが漏れ続け、塞がれるまでにO-リングが損傷を受ける「ブロー・バイ」 (blow-by) と呼ばれる現象が起きていた。サイオコール社の技術者達によってこの現象は調査され、O-リングが受ける総損傷量は押し出しが起きるまでの時間が直接関係しているとして、当事の寒い気象条件によってO-リングが硬くなり押し出しまでの時間が延びたと結論付けた。(このチャレンジャー事故以後に使用される改良型SRBの現場接続部には、ブロー・バイを緩和するために追加の噛み合い式ほぞ穴と中子、それに3番目のO-リングが設けられるようになった)
機体が発射整備塔を離れメイン・エンジン(SSME)の推力が104%に達すると、管制室はケネディ宇宙センターの発射制御センターから、[[テキサス州]][[ヒューストン]]の[[ジョンソン宇宙センター]]にある飛行制御センターに移行した。T+28、軌道船にかかる[[空力]]が機体の構造的限界を超えることを防ぐため、SSMEは正規の手順に従い推力を下げ、速度が[[対流圏]]内での限界値をオーバーしないように制御された。T+35.379、SSMEの推力は65%にまで落ち、その5秒後に高度約5,800mで機体の速度は[[マッハ]]1を超えた。T+51.860、機体にかかる空気抵抗が最大となるマックスQ([[最大空力温度]])を超え、SSMEの推力は再び104%にまで上げられた。
 
事故当日の朝、第一O-リングは低温寒さにより非常にってとても化しくなっていたためが間に合わなくなった。また第二O-リングは金属膨張し曲がったことにより、規のしい位置から外れてしに収まってなかった。これによって燃焼ガスを食い止める手段は失われ、2つのO-リングは70度の角度にわたって焼失蒸発てしまったが、固体燃料が燃えたあとに残された[[酸化アルミニウム]]のすす損傷した結合部の穴をふさいだためので本物後にの漏出再発する結合部を襲うまではすすこれがO-リングの機能を代用することになっ行していた。
===燃焼ガスの漏出===
[[File:Challenger STS-51-L-launch.jpg|thumb|upright|右側SRBのガスの漏出]]
T+37の初め頃からその後の27秒間に、機体は何度かにわたってそれまでのシャトルの飛行計画で記録された中でも最大級の[[ウィンドシア|横風]]を受けた<ref>{{cite web| author=NASA Mission Archives| title=STS-51L | url=http://www.nasa.gov/mission_pages/shuttle/shuttlemissions/archives/sts-51L.html | accessdate=2010-01-31}}</ref>。
 
機体が発射整備塔を離れメインエンジン(SSME)の推力が104%に達すると、管制室はケネディ宇宙センターの発射制御コントロール・センター (Launch Control Center, LCC) から、[[テキサス州]][[ヒューストン]]の[[ジョンソン宇宙センター]]にある飛行制御内のミッション・コントロール・センター (Mission Control Center, MCC) 移行し管制が引き継がれた。T+28、軌道船にかかる[[空力]]が機体軌道船の構造的限界に過負荷ないよう、T+28 になを防ぐため、SSMEは正規通常操作手順に従い推力を下げって速度が濃密な下層[[対流大気圏]]内でのシャトルの限界値をオーバーしないように制御さ速度までメインエンジン(SSME)の推力が下げら始めた。T+35.379、SSME になるとメインエンジンの推力は少しだけ戻されて予定通りの65%にまで落ち、なった。その5秒後に高度約5,800m800m(約19,000[[フィート]])で機体の速度は[[マッハ]]1を超えた。T+51.860 には機体にかかる空気抵抗力的圧力が最大となるマックスQ([[最大空力温度]])を超え、SSMEの推力は再び最大104%にまで上げられ始めた。
T+58.788、追跡カメラは右側SRBの後部接続部分から燃焼ガスが漏出し始めるのをとらえていた。横風を受けたことで機体がゆがみ、一時的にOリングの機能を代用していた酸化[[アルミニウム]]のすすが吹き出され、再びガスが漏れ始めたのである。飛行士やヒューストンの管制センターにいる人間が誰一人として気づかないうちに、高温のガスによって接合部に開いた穴はどんどん拡大していった。もしこの時機体が横風を受けていなかったら、SRBは無事に燃焼を終え、事故が発生することはなかったであろうと考えられている。
 
=== 漏洩 ===
漏出から数秒後、ガスの流れは映像でもはっきりと分かるほど強烈になっていった。損傷した接合部の穴が急速に拡大していったことで右側SRBの推力は低下し始め、T+60.238の映像では漏出ガスが外部燃料タンク(ET)を直撃する様子がはっきりととらえられていた<ref name="timeline"/>。
[[Fileファイル:Challenger STS-51-L-launch.jpg|thumb|upright|右側SRBのガスの漏出]]
この機体は T+37の初め 頃から始まりその後の27秒間に、機体は何度かにわたってそれ今日までのシャトルの飛行計画中に記録された中でも最大の[[ウンドシア|横風]](縦、または横方向の強風)何度かにわたって受けた<ref>{{cite web| author=NASA Mission Archives| title=STS-51L | url=http://www.nasa.gov/mission_pages/shuttle/shuttlemissions/archives/sts-51L.html | accessdate=2010-01-31}}</ref>。
 
T+58.788 になって追跡していたカメラが右側SRBの後部接続部分から煙が漏れ出し始めたのを捉えていた。チャレンジャー側もヒューストン側も知らなかったが、右側のSRBの接続部の1つで大きくなった穴から高温のガスが漏れ始めていた。損傷したO-リングに代わって酸化アルミニウムが一時的に穴を塞いでいたのを、ウインドシアの力が痛めつけて、結合部を通じて炎が襲う最後の守りが奪われてしまった。もしもウインドシアが無ければ、偶然に酸化物が塞いだことでSRBは無事に燃焼を終え、事故が発生することはなかったと考えられる。
T+64.660、とつぜん漏出ガスの形が鮮明になった。ET後部にある[[液体水素]]タンクからも燃料の水素が噴出し始めたのである。SRBの不具合によって生じた推力のアンバランスを補正するため、軌道船汎用コンピューターはSSMEにノズルを傾けるよう司令を出した。T+66.764、液体水素タンクの圧力が低下し始めたことが記録された。
 
数秒の内に煙は明らかで激しくなった。右側SRBの内部圧力は結合部が壊れて急速に穴が拡大したために低下し始め、T+60.238 には結合部を通って炎がはっきりと見て取れるようになり、外部タンクにまで悪影響を及ぼし始めていた<ref name="timeline"/>。T+64.660 には煙が突然形を変えて、外部タンクの後部側に位置する[[液体水素]]タンクも漏れ始めていることを示していた。SRBが溶落ち(金属が溶けて反対側まで突き抜けること)したことでバランスを崩した推力を補償するために、メインエンジンの[[ノズル]]がコンピュータ制御によって向きを調整されていた。シャトルの外部液体水素タンク内の圧力は、T+66.764 に低下し始め、漏洩の効果を示し始めていた<ref name="timeline"/>。
この段階ではまだ、飛行士や地上の管制官には状況は正常であると見えていた。T+68、通信担当官(CAPCOM。飛行中、唯一飛行士と対話が許されている管制官)のリチャード・コーヴェイ(Richard Covey)が「推力を上げよ(go at throttle up)」と指示を出し、これに対し機長の[[ディック・スコビー]]が「こちらチャレンジャー、推力を上げる(Challenger, go at throttle up)」と確認の返答をした。これが同機が海面に激突するまでの間に地上と交わされた最後の通信になった。
 
この段階でもまだ、飛行士達や地上管制官達には正常に見えていた。T+68 になるとカプセル通信担当者 (Capsule Communicator, CAPCOM) のリチャード・コービー (Richard Covey) が「推力を増せ」("go at throttle up") と乗員に指示して、船長の[[ディック・スコビー]]がこれを確認した。彼は「(こちら)チャレンジャーだ、推力を増す」("Challenger, go at throttle up") と答えたのを最後に、チャレンジャー号は空中に弧を描いて、やがて海面に激突した。<!--「発射および事故発生」節内は、ここまで確認済み。-->
===機体の崩壊===
 
[[File:Challenger - STS-51-L Explosion.ogg|thumb|チャレンジャー爆発の動画(346KB, [[ogg]]/[[Theora]] format]]
=== 機体の崩壊 ===
[[Fileファイル:Challenger - STS-51-L Explosion.ogg|thumb|チャレンジャー爆発の動画(346KB, [[ogg]]/[[Theora]] format]]
T+72.284、右側SRBとETの後部接続部分が引きちぎられた。飛行データにはT+72.525に右方向への突然の加速があったことが記録されており、この衝撃は恐らく乗組員にも感じられたはずである。その0.5秒後には[[マイケル・J・スミス]](Michael J. Smith)飛行士の「アー、オー(Uh, oh.)」という声が録音されており、これが搭乗員が発した最後の会話記録となっている<ref name="lewis">{{cite book|last=Lewis|first=Richard S.|title=Challenger: The Final Voyage|publisher=Columbia University Press|year=1988|pages=16|isbn=023106490X}}</ref>。スミスは操縦席の計器に示されたメイン・エンジンの出力の状態か、あるいは外部燃料タンクの圧力の急激な低下に反応したと考えられている。
 
61 ⟶ 63行目:
T+73.162、高度14,600mで機体の崩壊が始まった<ref name="kerwin">{{cite web| author=Kerwin, Joseph P.| title=''Challenger'' crew cause and time of death| year=1986| url=http://history.nasa.gov/kerwin.html| dateformat=mdy | accessdate=July 4, 2006}}</ref>。ETが破壊され正しい姿勢を保てなくなり(中途半端にぶら下がる形となった右側SRBが、不規則な推力を与えるようになったことも影響した)、設計上の限界値の5[[重力加速度|G]]をはるかに超える20Gもの空力負荷を受けたことにより、軌道船は瞬時に空中分解した。それよりも大きな空力に耐えられるように設計されている2機のSRBはETから外れ、その後37秒間にわたって無制御に飛行を続けた。SRBの外殻は厚さ12.7mmの[[鋼鉄]]でできており、軌道船やETよりもはるかに頑丈に作られている。そのため2機のSRB、とりわけ右側部分は機体全体を崩壊させる原因となったにもかかわらず、事故後も壊れることなく飛び続けたのであった<ref name="tv team" />。
 
=== 事故後の管制官の発言 ===
[[Fileファイル:STS-51L riadiace stredisko.jpg|thumb|left|事故直後、自身の管制席に座るジェイ・グリーン(Jay Greene)管制官]]
事故発生の瞬間、管制室は氷のような静寂に包まれていた。モニターにはシャトルが本来いるべきはずの軌道上に巨大な煙と水蒸気(燃料の水素が爆発して生成されたものである)の雲が発生し、無数の破片が海に落下する光景が映し出されていた。T+89頃、飛行主任のジェイ・グリーン(Jay Greene)は飛行力学担当官(Flight Dynamics Officer, FIDO)に詳しい状況を報告するよう促した。これに対するFIDOの応えは''“ the (radar) filter has discreting sources ”'' ([[レーダー]]のフィルターは発信源から外れています)というもので、これは機体がすでにバラバラに崩壊しているということを意味していた。一分後、地上制御官(Ground Controller)は''“ negative contact (and) loss of downlink ”'' (通信がとだえ、データも送られてこなくなりました)と報告した。グリーンは部下たちに''“ watch your data carefully ”'' (各自、自分の持ち場のデータを注意して見るように)と命じ、乗組員が脱出したことを伺わせるような、いかなる兆候も見落とすことのないよう注視した。
 
71 ⟶ 73行目:
グリーンは管制センター全体に、すべてのドアを施錠し、電話回線を遮断して外界との接触を断ち、チェックリストに従い関連するすべてのデータを記録し保存するなどの、緊急事態が発生した際における対応を取るように命じた。
 
=== 「爆発ではなかった」 ===
[[Fileファイル:Sts33-e204.jpg|image|thumb|分解し始めたチャレンジャーの機体]]
飛行力学担当官の最初の報告とは違い、チャレンジャー号は爆発したのではなかった。実際には最大空力温度(マックスQ)をわずかに過ぎた後の極めて高い空気抵抗によって、機体が急速に空中分解したのである(『過ぎた』と書いたのは、マックスQを超えれば空気抵抗は急速に減少し始めるからである)。ETが分解した際、内部に残っていた大量の液体酸素と液体水素が放出され、巨大な火球となった。しかしながら事故後にNASAの対策チームが分析した結果によれば、燃料の爆発は限定的なもので<ref name="tv team"/>、写真や動画などで爆煙に見えるのは、実はほとんどが放出された液体酸素や液体水素が蒸発して雲になったものである。極低温で保存された状態では、水素は通常イメージされるような「[[爆轟]]」と呼ばれる状態で爆発することはない(この事故で実際に起こったことは、爆燃 – deflagration – と呼ぶのが適切である)。もし本当に水素が爆発していたら、機体は一瞬で破壊され飛行士は即死していたはずである。だが搭乗区画とSRBは頑丈に作られていたために崩壊を免れ、SRBはその後も飛行を続け遠隔操作で爆破され、搭乗区画はT+75.237にガス雲を離れ、25秒後に最高高度19.8kmに達して(事故発生時の高度は14.6km)[[放物線]]を描いて落下していくのが後の画像の分析により確認された<ref name="kerwin"/>。
 
=== 乗員の死因と死亡時間 ===
シャトルは3Gまでの負荷に耐えられるように設計されている(実際には安全を見越して、さらに1.5G分の余裕がある)<ref name=Breakup>{{cite web | url=http://www.msnbc.msn.com/id/3078062/ns/technology_and_science-space | title=Chapter 5: An eternity of descent| publisher=[[MSNBC]] | last=Barbree | first=Jay | date=January, 1997 | accessdate=July 29, 2009}}</ref>。中でも搭乗区画は強化アルミニウムを使用していて、特に頑丈に作られている。機体が崩壊していく間、搭乗区画はひとかたまりとなって離れ、ゆっくりと放物線軌道を描いて落下していった。NASAは崩壊の際にかかった負荷は12Gから20Gであったと推定しているが、2秒以内に4G以下に下がり、10秒以内には[[自由落下]]していったと考えられている。この間にかかった負荷が直接の死因になったとは考えにくい。
 
97 ⟶ 99行目:
これに対してNASAの主調査官であるロバート・オーバーマイヤーなどの数人の専門家たちは、飛行士全員が生きていなかったとしても、何人かの者は海面に激突する直前まで意識があったと信じている<ref name="Breakup"/>。
 
=== 脱出装置の不備 ===
シャトルが[[ロケットエンジン]]を噴射して上昇している間は、搭乗員は機外に脱出することは不可能である。開発期間中に乗員の脱出方法については何度も検討されたことがあるが、NASAの結論は「シャトルには高い信頼性が期待できるので、脱出装置は必要ない」というものであった。試験飛行とみなされていた最初の四回の飛行では、[[SR-71 (航空機)|SR-71]]に使用されていたものを改良した[[射出座席]]や完全予圧服などが使用されたが、それ以降の「実用飛行」では取り除かれた([[コロンビア号空中分解事故|コロンビア号の空中分解事故]]の後、同事故の調査委員会は、安全が確立された商用[[航空機]]に比べ限られた飛行回数しか持たないスペース・シャトルは本質的に『実験機』であり、実用機と規定することはできないと断定した)。大人数の乗員を脱出させる装置を取りつけることは、「実効性がなく、装置が複雑になり、多額のコストがかかり、重量も増え計画の進行を遅らせる」として好まれなかったのである<ref>{{cite web| author=Rogers Commission report| title=Report of the Presidential Commission on the Space Shuttle ''Challenger'' Accident, Volume 1, chapter 9, page 180| year=1986| url=http://history.nasa.gov/rogersrep/v1ch9.htm |accessdate=2010-04-05}}</ref>。
 
事故の後、NASAは再度脱出装置についての検討を始め、射出座席・緊急脱出用ロケット・軌道船底部からの脱出など、いくつかの案が提出された。しかしながら改めて出された結論は、脱出装置を装備するには設計の全面的な変更が必要で、搭乗員数の制約もあって実現できないというものであった。帰還時に軌道船が[[滑空飛行]]している際に底部から脱出する方法も検討されたが、このシステムはチャレンジャー号のような事故に対しては役に立たなかった<ref>{{cite web| author=Rogers Commission report| title=Implementation of the Recommendations of the Presidential Commission on the Space Shuttle Challenger Accident, Recommendation VI| year=1987| url=http://history.nasa.gov/rogersrep/v6ch6.htm |accessdate=2010-04-05}}</ref>。
 
== 余波 ==
[[Fileファイル:Reagan Challenger.jpg|thumb|right|upright|事故の後、大統領執務室で国家的弔辞を読み上げるレーガン大統領]]
=== 弔辞 ===
事故の夜、レーガン大統領には例年の[[一般教書演説]]を行う予定が入っていた。当初彼は予定どおり演説をすると発表したが、すぐに変更して教書を一週間延期し、代わりに[[ホワイトハウス]]の大統領執務室からチャレンジャーの事故に対する国家としての弔辞を読み上げることにした。執筆を担当したのはペギー・ヌーナン(Peggy Noonan)で、末尾は以下に述べるジョン・ジレスピー・マギー・Jr.(John Gillespie Magee, Jr.)の「ハイ・フライト(High Flight, 空高く)」という詩の一節を引用して締めくくっていた。
 
137 ⟶ 139行目:
[[テキサスA&M大学]][[士官学校]]の第17[[小隊]]は、チャレンジャーを記念して「チャレンジャー17」と呼ばれている。
 
=== 残骸の回収 ===
機体の回収作業はすでに事故発生の一分後から始まっていた。担当指揮官はSRB回収用の船を墜落現場に派遣し、救助隊を載せた[[救難機]]も発進していた。しかしながらこの段階ではまだ無数の破片が落下を続けていたため、保安担当官は現場が安全になるまで回収船や救難機を域外に待機させていた。救助作業開始の許可が下りたのは、事故発生からおよそ一時間後のことであった<ref name="rogers o">{{cite web| author=Rogers Commission report| title=Report of the Presidential Commission on the Space Shuttle Challenger Accident, Volume 3, Appendix O: NASA Search, Recovery and Reconstruction Task Force Team Report| year=1986| url=http://history.nasa.gov/rogersrep/v3appo.htm | accessdate = 2007-10-11}}</ref>。
 
147 ⟶ 149行目:
機体に搭載されていた[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]は、[[コロラド州]]モニュメントの[[ボーイスカウト]]第514分隊によって「チャレンジャー旗」と名づけられ、現在は修復されて[[プラスチック]]の容器の中に保管されている<ref>{{cite web|url=http://articles.techrepublic.com.com/5100-10878_11-6030167.html?part=rss&tag=feed&subj=tr|title=Rising from the ashes|last=Garmon|first=Jay |date=January 24, 2006|publisher=Tech Republic| accessdate=2010-04-07}}</ref>。
 
=== 告別式 ===
[[Fileファイル:Challenger crew hearses.jpg|thumb|right|ケネディ宇宙センターのシャトル専用滑走路で[[C-141]][[輸送機]]に搭載され、[[ドーバー空軍基地]]に搬送される飛行士の遺体]]
飛行士の遺体のうち識別可能なものは、1986年[[4月29日]]に家族の元へと送られた。ディック・スコビー機長と、死後[[大佐]]に特進したマイケル・スミス飛行士の遺体は、家族によって[[アーリントン国立墓地]]の個人墓地に埋葬された。[[エリソン・オニヅカ]]空軍[[中佐]]の遺体は[[ハワイ州]][[ホノルル]]の[[太平洋]]国立記念墓地に埋葬された。遺体のうち識別不能なものは、1986年[[5月20日]]にアーリントンのチャレンジャー祈念碑に共同で埋葬された<ref>{{cite web|url=http://www.arlingtoncemetery.net/challengr.htm|title=The Shuttle Challenger Memorial, Arlington National Cemetery.|accessdate=2006-09-18}}</ref>。
 
== 調査 ==
事故の衝撃が覚めやらない頃、NASAはメディアに対して閉鎖的であることを批判された。[[ニューヨークタイムズ]]は後日「発射指揮官のジェイ・グリーンをはじめとする管制室の者たちは、宇宙機関によって口止めをされている」と報じた<ref>{{cite news | last = Reinhold| first = Robert| title = At Mission Control, Silence and Grief Fill a Day Long Dreaded| work = New York Times| pages = A8| date = [[January 29]], [[1986]] }}</ref>。信頼できる情報源がなかったため、マスコミには様々な憶測が流れた。ニューヨークタイムズや[[UPI通信社]]は、NASAが中間報告で早い段階からSRBに注目していたにもかかわらず、外部燃料タンクに問題があったとする根拠のない報道をした<ref name="harwood 6">{{cite web | last = Harwood | first = William | title = Voyage Into History; Chapter Six: The Reaction | work = | date = 1986 | url = http://web.archive.org/web/20060504192714/http://www.cbsnews.com/network/news/space/51Lchap6reaction.htm|accessdate=2010-04-07}} Archived by the Internet Archive on 2006-05-04.</ref><ref>See, for example, ''New Orleans Times-Picayune'', [[January 29]], [[1986]], p. 1.</ref>。宇宙開発の評論家ウィリアム・ハーウッド(William Harwood)は、「宇宙機関は厳格な秘密主義にこだわり調査に対して非協力的で、傲慢で非開放的でありのらりくらりとした回答しかしない」と批判した<ref name="harwood 6"/>。
 
=== ロジャー委員会 ===
[[Fileファイル:Members of the Rogers Commission arrive at KSC - GPN-2004-00032.jpg|thumb|200px|left|ケネディ宇宙センターを訪れるロジャー委員会の委員たち]]
事故の原因究明のため、ロジャー委員会(名称は委員長の名に依る)の名で知られる「'''チャレンジャー事故調査代表委員会'''」が組織された。メンバーは委員長のウィリアム・P・ロジャース(William P. Rogers)、副委員長の[[ニール・アームストロング]](Neil Armstrong)、他にデヴィッド・エイクソン(David Acheson)、ユージン・コヴァート(Eugene Covert)、[[リチャード・P・ファインマン|リチャード・ファインマン]](Richard Feynman)、ロバート・ホッツ(Robert Hotz)、ドナルド・クッティーナ(Donald Kutyna)、サリー・ライド(Sally Ride)、ロバート・ランメル(Robert Rummel)、ジョセフ・サッター(Joseph Sutter)、アーサー・ウォーカー(Arthur Walker)、アルバート・ホイーロン(Albert Wheelon)、そして[[チャック・イェーガー]](Chuck Yeager)であった。委員会は数ヶ月におよぶ調査の後、報告書を発表して所見を述べた。それによれば、事故原因は右側固体燃料補助ロケット接合部分のOリングの不備によるものであり、同所から漏出した高温の燃焼ガスが外部燃料タンクとの接続部分を直撃し、構造を破壊したことであると結論づけた。Oリングには構造的な欠陥があり、事故当日の朝のような低温にさらされた場合は、容易に危険な状態に陥るものであった<ref>{{cite web| author=Rogers Commission report| title=Report of the Presidential Commission on the Space Shuttle ''Challenger'' Accident, Volume 1, chapter 4, page 72| year=1986| url=http://history.nasa.gov/rogersrep/v1ch4.htm|accessdate=2010-04-09}}</ref>。
 
162 ⟶ 164行目:
委員会のメンバーの中で最も著名な人物の一人に、[[理論物理学]]者のリチャード・ファインマンがいる。彼は遠隔会議による事情聴取の際、なぜOリングが氷点下の気温の中では復元力が低下し密閉性がなくなるのかということを、氷水の中に資料を浸してみることで見事に実証してみせた。彼はNASAの安全における認識の欠如にきわめて批判的で、シャトルの信頼性に対する彼の個人的な見解を報告書に載せなければ委員会から身を引くと脅したため、それは「補足F」という名称で記載されることになった<ref>Feynman, Richard P.. ''What Do You Care What Other People Think?''</ref>。ファインマンはその中で、NASAの首脳から提出された安全性への評価は粗雑で非現実的であり、現場で働く技術者のものとは何千倍もかけ離れていると主張している。「成功する技術では、人間関係よりも現実が優先されなければならず、本質をおろそかにしてはならない」と彼は言った<ref>Feynman, Richard P. (1986) [http://science.ksc.nasa.gov/shuttle/missions/51-l/docs/rogers-commission/Appendix-F.txt Appendix F- Personal Observations on the reliability of the Shuttle.]</ref>。
 
=== 下院公聴会 ===
1986年[[10月29日]] 、[[アメリカ合衆国下院|下院]]科学技術[[公聴会]]も独自の聴取を終え、報告書を提出した<ref>{{cite web| last=U.S House Committee on Science and Technology | title = Investigation of the Challenger Accident; Report of the Committee on Science and Technology, House of Representatives. | publisher = US Government Printing Office| date = [[October 29]], [[1986]].| url = http://www.gpoaccess.gov/challenger/64_420.pdf | format = PDF|accessdate=2010-04-09 }}</ref>。公聴会はロジャー委員会が発見した事実をその調査の中の一部で再検証し、事故の技術的な原因についてはロ委員会に同意したが、根本的な原因という点に関しては異なる見解を示していた。
{{Cquote|…当公聴会は、チャンレンジャー号事故を発生せしめるに至った根本的な原因は、ロジャー委員会が結論づけたような連絡の不徹底や、基本的な手順の誤りなどといったものではないと感じる。むしろ本質的な問題は、NASAとその契約企業の職員が、ここ数年来固体燃料補助ロケットの接合部分における異変が深刻になり続けていたにも関わらず何ら決然とした対処をすることができなかった、その優柔不断な意志決定過程にあると言える<ref>{{cite web| last=U.S House Committee on Science and Technology | title = Investigation of the Challenger Accident; Report of the Committee on Science and Technology, House of Representatives. | publisher = US Government Printing Office| date = [[October 29]], [[1986]].| url = http://www.gpoaccess.gov/challenger/64_420.pdf | format = PDF|accessdate=2010-04-09}}, pp. 4-5.</ref>。}}
 
== NASAの対応 ==
ロジャー委員会の結論が出るまで、シャトルの飛行は中止を余儀なくされた。[[1967年]]の[[アポロ1号]]の火災事故の時には中間調査を受けたことがあったが、今回は外部の目ははるかに厳しかった。ロジャー委員会はNASAに対しシャトル計画の安全性に関する9項目の改善案を示し、レーガン大統領はNASAの責任者を出頭させ、これらの改善案をどのように実行するのか30日以内に報告するよう命令した<ref name="implementation report">{{cite web| title = Report to the President: Actions to Implement the Recommendations of the Presidential Commission on the Space Shuttle Challenger Accident|publisher = NASA| date = July 14, 1986| url = http://history.nasa.gov/rogersrep/actions.pdf | format = PDF|accessdate=2010-04-09}}</ref>。
 
180 ⟶ 182行目:
チャレンジャー号事故の後、NASAは大きな変革をしたように思えるが、評論家の中には経営構造や組織文化は何も変わってはおらず、長続きはしないだろうと主張する者もいた。[[2003年]]にコロンビア号の空中分解事故が発生した際、NASAの安全管理に対する姿勢が改めて注目されるようになり、コロンビア号事故調査委員会(Columbia Accident Investigation Board, CAIB)はNASAはチャレンジャー号事故から何も学ばなかったと断定し、特に安全管理部門において完全に独立した監督機関を置かなかったことは、「ロジャー委員会の意向に背くものであった」と指摘した<ref>{{cite web| author=Columbia Accident Investigation Board| title=Report of Columbia Accident Investigation Board, Volume I, chapter 7, page 178 (PDF)|year=2003| url=http://anon.nasa-global.speedera.net/anon.nasa-global/CAIB/CAIB_lowres_chapter7.pdf|format=PDF|accessdate=2010-04-09}}</ref>。CAIBは「NASAの組織的な欠点は改善されることはなく、チャレンジャーの事故を引き起こした意志決定過程におけるその同じ欠陥が、17年後にコロンビア号の事故を発生させた」と結論づけた<ref>{{cite web| author=Columbia Accident Investigation Board| title=Report of Columbia Accident Investigation Board, Volume I, chapter 8, page 195 (PDF)|year=2003| url=http://anon.nasa-global.speedera.net/anon.nasa-global/CAIB/CAIB_lowres_chapter8.pdf|format=PDF|accessdate=2010-04-09}}</ref>。
 
=== メディアの報道 ===
チャレンジャーは[[ニュー・ハンプシャー州]]の高校教師クリスタ・マコーリフが搭乗していたことで一部のマスコミからは注目されていたが、発射の状況を生放送する局は少なく、公共放送で中継していたのは[[CNN]]といくつかの[[ラジオ]]局だけであった。一方NASAはマコーリフによる宇宙授業を計画していたため、NASA TVを通じて多くの公立学校に映像を中継していた<ref>{{cite web
| url = http://www.msnbc.msn.com/id/11031097/
186 ⟶ 188行目:
| author = | publisher = MSNBC | date = |accessdate=2010-04-09}}</ref>。その結果、1986年当時に就学児童・生徒であった多くのアメリカ人が、事故の場面をライブで目撃することとなった。しかしながら事故後に行われたあるアンケート調査では、発射の場面を見たと答えた者は全体の17%で、そのうちの85%は事故のことは発生から一時間以内に他の人から教わったと答えた。これについて新聞報道の専門家は、「(ニュースが)どれほどの早さで伝播していくかということについて行われた研究は、二例しか存在しない」と語っている(一つは[[ダラス]]で[[ケネディ大統領]]が暗殺されたときのもので、もう一つは[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト大統領]]の死去に関するニュースが[[ケント州立大学]]の学生たちの間で広まっていったときのものである)<ref name="diffusion">{{cite journal | last = Riffe | first = Daniel | coauthors = James Glen Stoval| title = Diffusion of News of Shuttle Disaster: What Role for Emotional Response? | journal = Journalism Quarterly | pages = 552 | publisher = Association for education in journalism and mass communication | date = Autumn 1989}}</ref>。また他の調査では、「事故発生の瞬間にテレビを見ていなかった者たちも、その日はどこの放送局も終日このニュースを流し続けていたために、確実に爆発の映像を見ていたはずである」としている<ref name="children">{{cite journal | last = Wright| first = John C. | coauthors = Dale Kunkel; Marites Pinon; Aletha C. Huston | title = How Children Reacted to Televised Coverage of the Space Shuttle Disaster | journal = Journal of Communication | volume = 39 | issue = 2 | pages = 27 | date = Spring 1989 | doi = 10.1111/j.1460-2466.1989.tb01027.x}}</ref>。生中継で見ていた者の割合は大人よりも児童たちのほうが高く、多くの——ニューヨークタイムズの調査によれば、9歳から14歳までの子供のうちの48%——の児童が、学校で発射の映像を見ていた<ref name="children"/>。
 
事故後もしばらくの間はマスコミの関心は高く、発射当日に各メディアから派遣されたレポーターの数は535人に過ぎなかったのが、3日後にはケネディ宇宙センターに派遣された者の数は1467人、ジョンソン宇宙センターに派遣された者は1040人になった。事故は世界的なニュースになり、多くの新聞の見出しを飾った<ref name="harwood 6"/>。
 
=== 危機管理としての研究課題 ===
チャレンジャー号事故は[[安全管理]]、[[内部告発]]の倫理、[[コミュニケーション]]、集団意思決定過程、[[集団思考]]などの研究課題としてしばしば取り上げられる。[[カナダ]]などの他の国々においては、この事故を扱った書籍が技術職の資格を得る際の必読書になっている<ref>{{cite book
| last = Andrews
204 ⟶ 206行目:
[[情報工学]]の専門家エドワード・タッフル(Edward Tufte)は、この事故を明確な情報の提示がなされなかった際に発生する問題の好例として使用している。もしサイオコールの技術者たちが、低温がSRB接合部の緊密性に与える影響についてもっと明確に説明することができていたら、NASAの幹部に発射を中止するよう説得できていたかもしれないと彼は主張する<ref> [[Edward Tufte]]. (1997) ''Visual Explanations'', ISBN 0-9613921-2-6, Chapter 2.</ref>。タッフルはまた、コロンビア号の事故の際にも拙劣な情報の提示がNASAの決定に影響を与えた可能性があると語っている<ref>{{cite web |url= http://www.edwardtufte.com/bboard/q-and-a-fetch-msg?msg_id=0001yB&topic_id=1|title= PowerPoint Does Rocket Science—and Better Techniques for Technical Reports |accessdate=2007-01-28 |author=Tufte, Edward}}</ref>。
 
=== シャトル計画への貢献 ===
事故の後、調査・事情聴取・SRBの再設計などのためにすべての軌道船はほぼ3年間にわたって格納庫で待機することを余儀なくされ、また技術的・経営的背景の見直しと変更や準備が行われた。1988年9月29日午前11時37分、5人の飛行士<ref>{{cite web|author=John A. Logsdon |url=http://history.nasa.gov/SP-4219/Chapter15.html |title=Return to Flight...Challenger Accident |publisher=History.nasa.gov |date= |accessdate=2009-07-17}}</ref>を乗せたスペース・シャトルディスカバリー号が、[[ケネディ宇宙センター第39複合発射施設|ケネディ宇宙センター39B発射台]]から打ち上げられた。格納庫に搭載されていたのは、チャレンジャーで軌道に投入される予定だったが事故で消失した「追跡およびデータ中継衛星B(Tracking and Data Relay Satellite-B, TDRS-B)」の代わりを務める、TDRS-C衛星であった(軌道投入後、TDRS-3と改名された)。「リターン・トゥ・フライト」(必ず生還しなければならない)が至上命令である今回のディスカバリーの飛行は、再設計されたSRBの試験であるとともに、安全に対するより保守的なスタンスへの移行であり(一例を挙げれば飛行士は完全予圧服を着用していたが、それは最初の四回の飛行以来のことであった)、アメリカの宇宙計画、特に有人宇宙飛行に対する国家的な威信を回復するチャンスでもあった。飛行計画STS-26はわずかに二つの故障(一つは搭乗区画の冷却システムで、もう一つはKuバンドのアンテナであった)を起こしただけで成功裏に終了し、以後はコロンビア号の事故が発生するまでシャトルの飛行は計画通りに進行した。クリスタ・マコーリフの予備搭乗員で、彼女とともに宇宙授業計画で訓練を受け、当日には現場で機体が空中爆発する光景を肉眼で目撃した[[バーバラ・モーガン]](Barbara Morgan)飛行士は、[[2007年]][[8月8日]]に発射された[[STS-118]]で、[[ミッション・スペシャリスト]]として宇宙に行った。
 
== 参考文献 ==
* {{cite web | last = Boisjoly | first = Roger | authorlink = Roger Boisjoly| title = Ethical Decisions—Morton Thiokol and the Space Shuttle ''Challenger'' Disaster: Telecon Meeting| publisher = onlineethics.org | url = http://www.onlineethics.org/CMS/profpractice/ppessays/thiokolshuttle.aspx| accessdate = 2007-04-24 }}
* CNN.com (1996), [http://www.cnn.com/TECH/9612/17/challenger.debris/index.html Shuttle ''Challenger'' debris washes up on shore.] Retrieved on July 4, 2006.
243 ⟶ 245行目:
* {{cite journal | last = Wright| first = John C. | coauthors = Dale Kunkel; Marites Pinon; Aletha C. Huston | title = How Children Reacted to Televised Coverage of the Space Shuttle Disaster | journal = Journal of Communication | volume = 39 | issue = 2 | date = Spring 1989}}
 
== 注記 ==
{{Reflist}}
 
== 関連項目 ==
* [[スペース・シャトル]]
* [[スペース・シャトル固体燃料補助ロケット]]
* [[スペース・シャトル外部燃料タンク]]
* [[コロンビア号空中分解事故]]
{{Commonscat|Space Shuttle Challenger disaster}}
{{アメリカ合衆国の有人宇宙計画}}