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'''南漢'''(なんかん、[[909年]] - [[971年]])は[[唐]]滅亡後の[[五代十国時代]]に[[広東省]]・[[広西チワン族自治区]]・[[ベトナム]]北部を支配した地方政権。
 
== 歴史 ==
建国者の[[劉隠]]の祖先は[[河南省|河南]]にあったが、祖父の代に福建に移り住んで、南海交易で利益を上げて、当地の有力者となった。父の劉謙(りゅうけん)の時に[[広州市|広州]]に移って、[[黄巣の乱]]に際して功績を挙げて、封州(広東)[[刺史]]となった。なお、劉隠の祖先はアラブ系だという説がある <ref>藤田豊八「南漢劉氏の祖先について」『東洋学報』6-2、1916年。</ref> 。
 
劉隠は父の死後、その地位を受け継いで刺史と為り、静海軍[[節度使]](広東・広西)の反乱を鎮圧し、更にこれを乗っ取って[[904年]]に静海軍節度使となった。その後、広東全土と広西の一部を支配し、唐の滅亡とともに自立の姿勢を強める。さらに南海貿易での利益をもとに広東・広西に勢力を広げ、半独立勢力化した。これに対して当時の中原勢力である[[後梁]]は[[909年]]に彼を南平王に、[[911年]]に南海王に任じた。劉隠は南海王に任じられた後、ほどなくして死去した。
 
跡を継いだ弟の[[劉&#40849;(りゅうげん、&#40849;は龍の下に天)]]は[[917年]]に[[皇帝]]を名乗り、完全に自立した。国号は当初大越であったが、[[918年]]に[[前漢]]・[[後漢]]を建てた劉氏と同姓であることから漢に改称した。南漢の名は、他の政権と区別するための後代の[[歴史家]]の命名である。
 
南漢の政治劉隠戦乱の時代であり、圧倒的に軍人主導の政治であった五代十国時代では例外的に文官が優越した政治であり、地方官は全て文官がなることが原則であった。この理由としては、唐代の中央での権力争いに敗れた官僚たち、こ地に左遷先として選ばてい官僚達がこの地方であり、そのまま住み着いた者も多く、そう言った人々が南漢勢力に参加した子孫や戦乱からである。劉隠自身もこら文官てきた人士政治参加を積極的に推進し、この地に比較的平穏な状態を作ることに成功する。更に[[南海]]貿易巨額の利益を積み上げて、宮廷は大いに贅沢なものとした。
 
しかし、[[942年]]の劉&#40849;の死後は継承争いにより混乱が起きる。まず劉&#40849;の三男の[[劉&#29602;(りゅうひん、&#29602;は王編に分)]]が後を継ぐが、すぐに弟(四男)の[[劉晟]]に殺され、劉&#26207;(りゅうせい、&#26207;は日の下に成)が即位する。
 
即位した&#26207;は帝位を争う宏雅、宏弼、宏道ら10人近くの弟たちを皆殺しにして帝位を安泰とし、更に北の[[楚 (十国)|楚]]の内乱に乗じて出兵し、連州。桂州等の領土を奪った。しかし外征の景気の良さとは裏腹に劉晟は殺した弟たちの妻を自らの後宮に入れるなどの不品行が目立ち、更に功臣の劉思潮や陳道庠を殺し、政治を[[宦官]]に任せきりにするなど内部は腐敗していた。
 
&#26207;は[[958年]]に死去し、長男の[[劉&#37625;(りゅうちょう、&#37625;は金編に長)]]が後を継ぐが、劉&#37625;は猜疑心が非常に強く、文官たちを殺して周りその代わりを全て宦官で埋めた為、劉&#37625;の時代の南漢朝廷はほとんど宦官で占められるという有様であった。劉&#37625;は登用したい人物がいた場合はわざわざ[[去勢]]してから登用したという
 
このような状態に人心は乖離し、[[971年]]の[[北宋|宋]]の侵攻には全く抵抗し得ず、劉&#37625;は財宝を10余隻の船に積み込んで逃亡しようとしたが、信任してきた宦官によって持ち逃げされ、宋軍の捕虜となり、その領土も宋によって併呑された。併吞時の南漢領は60州214県、戸数(今の世帯数)は170263であった。
宦官の数は、劉&#26207;の時代に約7000人で、これでも人口100万人の国家としてはかなり多いが、劉&#26207;の時代の終わり頃には、それが2万人にも達し、全人口の2%(成人男性の1割近く)が宦官という有様であった。
 
このような状態に人心は乖離し、[[971年]]の[[北宋|宋]]の侵攻には全く抵抗し得ず、劉&#37625;は財宝を持ち出して逃亡しようとしたが、信任してきた宦官によって持ち逃げされ、宋軍の捕虜となり、その領土も宋によって併呑された。劉鋹を初めとした一族は[[開封]]に移され、王族として遇された。劉&#37625;は宋の左千牛衛大将軍とされ、死後には南越王に追封された。
 
==南漢の統と宦官 ==
南漢の政治は同時期に存在した他の五代十国政権と違い、軍人主導ではなく文官が優越しており、地方官には全て文官があてられていた。この理由としては、唐代の中央での権力争いに敗れた官僚たちの左遷先として当時未開の地だったこの地方が選ばれており、左遷された後も住み着いた者が多く、そのような人々の子孫達や戦乱の続いた[[中原]]から逃れてきた人士が南漢勢力に参加したからである。
 
しかし劉晟の代になると宦官が重用され、宦官の数も約7000人<ref>人口約100万人の国家だった為、この時点でも人口比率から見ればかなりの数である</ref>から劉晟の在位末期には約2万人に増加し、全人口の2%(成人男性の1割近く)が宦官という状況に陥る。後を継いだ劉&#37625;は大勢の文官を粛清し、空いたポストに宦官を登用、登用したい人物がいた場合はわざわざ[[去勢]]してから登用したという。宋に併吞された際には7000人以上の宦官が宋軍に拘束された。
 
== 南漢の統治者 ==
#烈祖・[[劉隠]](りゅういん [[874年]] - [[911年]])
#高祖・[[劉&#40849;]](りゅうげん、もとの名は巌 [[889年]] - [[942年]] 在位[[917年]] - [[942年]])
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#後主・[[劉&#37625;]](りゅうちょう、もとの名は継興 [[943年]] - [[980年]] 在位[[958年]] - [[971年]])
 
== 参考・引用文献 ==
==脚注==
*[[1997年]]『世界歴史大系 中国史 3』五代~元([[山川出版社]] ISBN 4634461706)
 
== 脚注 ==
<references/>