「日ソ基本条約」の版間の差分

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== 締結に至る経緯 ==
 
[[1917年]]のロシア革命で[[共産主義]]を掲げる[[ボリシェヴィキ]]のソビエト政権がロシアの中央政権を奪取すると、共産主義の[[極東]]への波及による[[天皇制]]の破壊を恐れた日本は、同じくソビエトを敵視する[[イギリス]]・[[フランス]]・[[イタリア]]などの諸国と歩調をあわせて[[ロシア内戦]]への干渉を決定、[[1918年]]初頭にイギリスと共同で居留民保護を名目とした艦隊を[[ウラジオストク]]に派遣、同年夏にはシベリアで孤立する[[チェコ]]軍団の救出を名目として[[シベリア出兵]]を開始。ソビエト政権と日本との間の関係は決定的な対立に陥っていた。[[1922年]]、日本軍は撤兵を声明し、9月に日ソの間でもたれた[[長春会議]]は決裂するものの、10月までに日本軍は最終的な撤兵を完了する。しかし、依然として[[北樺太]]には[[尼港事件]]をきっかけとして追加出兵した日本軍が居座っ駐留していた。
 
長春会議決裂と日本軍撤兵にともなって、ソ連は極東地区における緩衝国として維持していた[[極東共和国]]を廃止して併合し、[[1923年]]より日ソ国交正常化のための直接交渉に入る。中国の[[北京市|北京]]で行われた交渉は、同年の予備交渉を経て[[1924年]]5月から日本側代表[[芳沢謙吉]]とソ連側代表[[レフ・カラハン]]の間での正式交渉に入り、[[1925年]][[1月20日]]に至って北京で日ソ基本条約が締結された。
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もともと日本政府の首脳は共産主義への敵視が強かったため、シベリアからの撤兵後も国交正常化の動きには冷淡であった。しかし、ソビエト連邦の安定化とともに、冷却した日ソ関係が日本経済に大きな不利益を発生させていた。例えば、[[敦賀港]]・[[舞鶴港]]を通して[[沿海州]]と貿易を行っていた関西財界は輸送網を遮断されてしまい、[[オホーツク海]]で漁業を行っていた漁師らは、ソ連の沿岸住民らの妨害にさらされた。このようにして、世論にはソ連との修好回復を望む声があらわれたので、日本も国交正常化に前向きとならざるを得なかった。
 
また、ソ連は極東では混乱の渦中にあった中国との連携を図っており、まず[[1919年]]の[[カラハン宣言]]では、中国との対等関係の樹立、中東鉄道(東清鉄道が改称)の還付を約束し、さらに[[広東省|広東]]の[[孫文]]政権に協力した。日本は満を根拠とする軍閥[[張作霖]]を篭絡していたものの、叛服常なき張を扱いかねていた。こうした中にあって、中国での権益を守るためにも国交回復すべきことを真剣に唱えたのが、初代[[南満州鉄道|満鉄]]総裁で[[外務大臣]]の経験もある[[後藤新平]]であった。彼はイデオロギーの問題を軽視し、日本が極東で利権を確保するためにはソ連と友好関係を結ぶことが必要であり、また[[ワシントン海軍軍縮条約|ワシントン条約]]で日本が列国に閉塞させられた状況を打開するには、国際秩序にソ連を再び引きずり込む必要があると考えた。こうして後藤は右翼勢力の反発がありながらも交渉に取り組む。
 
[[ポーツマス条約]]で日本が得た沿海州沿岸の漁業権と並んで、日ソの交渉の中で問題となったのは、日本軍が駐留を続ける北樺太に眠ると見られていた石油・石炭資源の利権を巡る問題であった。交渉の末、ソ連側は駐留日本軍の撤退と引き換えに譲歩し、北樺太の天然資源の利権を日本側に与えることで決着した。こうして日本側は出兵の代償をわずかに確保して面子を立て、日ソ基本条約に調印した。