「ディオドトス1世」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
[[Image:DiodotusGoldCoin.jpg|right|thumb|220px300px|バクトリア王ディオドトスの金貨。BC250年頃]]
'''ディオドトス1世ソテル'''([[ギリシャ語]]:Διόδοτος Α' ὁ Σωτήρ)は、初代[[グレコ・バクトリア王国]]の[[国王]]。初めは[[セレウコス朝]]の[[総督]]([[サトラップ]])であったが、のちに叛いてグレコ・バクトリア王国の創始者となった。彼の事績は[[ローマ]]の[[歴史家]][[ポンペイウス・トログス]]([[紀元前1世紀]]頃)が記した『ピリッポス史』を[[ユニアヌス・ユスティヌス]]([[3世紀]]頃)が抄録したもの、すなわち『地中海世界史』(邦題)によって知ることができる。この中でのディオドトスは'''テオドトス'''(Theodotus)と表記されている。
 
== 生涯 ==
'''ディオドトス1世'''は[[セレウコス朝]]の[[総督]]([[サトラップ]])、のちに叛いて[[グレコ・バクトリア王国]]の創始者となった。彼の事績は[[ローマ]]の[[歴史家]][[トログス]]([[紀元前1世紀|BC1世紀]]頃)、[[ユスティヌス (歴史家)|ユスティヌス]]([[3世紀]]頃)、[[ストラボン]]らによって伝えられている。これらの中でディオドトスは「テオドトス」(Theodotus) と呼ばれているが、これはディオドトスが「ソテル」(Sotel) という[[称号]]を自らに用いていたことと関係していると思われる。ディオドトスの影響力は周辺諸州に及び、時を同じくしてセレウコス朝から独立した[[パルティア]]総督、アンドラゴラスの同盟者でもあった。
=== 独立と繁栄 ===
初め、ディオドトスはセレウコス朝の[[アンティオコス2世]](在位:[[紀元前261年]] - [[紀元前246年]])のもと、[[バクトリア]]・[[ソグディアナ]]のサトラップ(総督)を任されていた。しかし、アンティオコス2世が死去すると、その2人の息子の間で王位継承争いが起き、各地でセレウコス朝からの離反が始まった。
 
{{cquote|[[セレウコス2世|セレウコス]]と[[アンティオコス・ヒエラクス|アンティオコス]]の兄弟が王権を奪い合って離反者を放っておいたため、「千の都市」(バクトリア)の総督であったテオドトスもこれに乗じて離反し、領民に対して自分を王と呼ぶように命じた。これによって全オリエントの諸民族が[[マケドニア]]から離反することとなった。<『地中海世界史』>}}
== 独立と繁栄 ==
当時セレウコス朝の[[アンティオコス2世]]は[[プトレマイオス朝]]と交戦状態にあった。
 
また、[[古代ローマ]]の[[ストラボン]]はディオドトスの独立後とその後の繁栄の様子を次のように記している。
{{cquote|「千の都市の総督」(ラテン語で"Theodotus, mille urbium Bactrianarum praefectus")であったディオドトスは自らを王と名乗ってセレウコス朝からの独立を宣言した。東方諸州は彼に倣い[[マケドニア]]人の王国から次々と独立していった。(ユスティヌス)}}
{{cquote|バクトリアを離反させたギリシャ人はその肥沃な国土をもって大いに勢力を伸ばし、アリアネ<ref>アリアナ。[[アケメネス朝]]の属領。現在の[[アフガニスタン]]、[[イラン]]東部、[[パキスタン]]西部を含む。</ref>地方と[[インド人|インド族]]を支配するまでとなった、ということはアルテミタのアポロドロス (Apollodorus of Artemita)<ref>紀元前1世紀頃のギリシャ人作家。パルティアの歴史書を書いた。</ref>が述べているところで、征服した部族の数は[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス]]の時を越えた。<『ギリシア・ローマ世界地誌』>}}
 
=== アルサケスとの抗争 ===
新たな王国は高度に都市化された東方随一の富を誇り、その領域を東西に伸張していった。「バクトリア千市帝国は至上の繁栄を享受した」(ユスティヌス)のである。
遊牧の民[[ダーハ族]]の首長であったアルシャク(ギリシア語ではアルサケス)は[[パルティア]]へると、そこでを自称していた前パルティア総督アンドラゴラスを滅ぼしパルティア王国の創始者となった([[アルサケス1世]])。パルティアを乗っ取ったアルサケス1世はその後まもなく[[ヒュルカニア王国]]も占領し、セレウコス朝,グレコ・バクトラ王国と対峙した。
 
しかし、まもなくディオドトス1世が亡くなったため、アルサケス1世はその息子の[[ディオドトス2世]]と同盟および講和を結んだ。
アルテミタのアポロドルス (Apollodorus of Artemita)<ref>紀元前1世紀頃のギリシャ人作家。パルティアの歴史書を書いた。</ref>によれば、バクトリアのギリシャ人はその肥沃な国土をもって大いに国力を伸ばし、アリアナ<ref>[[アケメネス朝]]の属領。現在の[[アフガニスタン]]、[[イラン]]東部、[[パキスタン]]西部を含む。</ref>だけでなく[[インド]]においても宗主権を行使したという。また、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス]]が制圧したよりも多くの種族を降伏させた。中心となった都市は[[バクトラ]]、ダラスパなどであった。(ストラボン)
 
== アルサケスとの抗争 ==
遊牧の民[[ダーハ族]]の首長であったアルシャク(ギリシア語ではアルサケス)は[[パルティア]]へ入ると王を自称していた前総督、アンドラゴラスを滅ぼしパルティア王国の創始者となった。([[アルサケス1世]])
 
グレコ・バクトリア王国はギリシャ文化圏との地理的繫がりを断たれることになった。これによってバクトリアの陸上貿易は打撃を受けるがギリシャ、[[エジプト]]との海上貿易が発展することとなった。[[紀元前239年|BC239年]]、[[セレウコス2世]]は東方の反逆者を撃つべく挙兵したが、ディオドトスはこれに加勢し共にパルティアに対峙したという(ユスティヌス)。
 
まもなくディオドトスは亡くなり、息子の[[ディオドトス2世]]がパルティアとの講和に成功した。彼はパルティア国王アルサケス1世と同盟して、セレウコス2世に対峙した。
 
{{cquote|「ディオドトスの死によって同じ名前を名乗る彼の息子とアルサケスの間に盟約が結ばれた。彼らは叛乱鎮圧のためやってきたセレウコスの軍と戦い、退却させた。パルティア人はこの日を独立の日として祝日にしている」(ユスティヌス)}}
 
この後、ディオドトス2世は[[簒奪]]者[[エウティデモス]]に殺害され、王位を奪われてしまう。
 
== 関連項目 ==
* [[バクトリア]]
* [[ヘレニズム]]
* [[インド・グリーク朝]]
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
 
== 参考資料 ==
*[[ポンペイウス・トログス]]([[ユニアヌス・ユスティヌス]]抄録)『地中海世界史』([[京都大学学術出版会]]、1998年、ISBN 4876981078)
*[[ストラボン]](訳:[[飯尾都人]])『ギリシア・ローマ世界地理誌Ⅱ』([[龍溪書舎]]、1994年、ISBN 4844783777)
 
{{先代次代|[[グレコ・バクトリア王国]]の国王|初代:[[紀元前239年|前239]]/[[紀元前238年|8年]] - [[紀元前234年|前234年]]|―|[[ディオドトス2世]]}}
 
[[Category:ヘレニズム時代|ていおととす1せい]]