「醍醐忠重」の版間の差分

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旧[[東京市]][[麹町区]]元園町に[[公卿]][[華族]][[清華家]]の名門[[醍醐家|醍醐]][[侯爵|侯爵家]]の嫡子として生まれる。父[[醍醐忠敬]]は[[戊辰戦争]]で奥羽鎮撫副総督などを務めたが、忠重8歳の時に家督相続に絡む怨恨が原因で従兄弟の格太郎に射殺され、当時一大スキャンダルとなり醍醐家は没落。忠重は公卿[[摂家]]の[[一条家]]に引取られて養育された。[[賀陽宮恒憲王]]は従兄弟である。
 
学習院旧制中等科了後に海軍兵学校に進み海軍将校となる。[[侍従武官]]などを務めた他、自ら希望して潜水艦畑を進み[[太平洋戦争]]では潜水艦戦の専門家として第5潜水戦隊司令官、第6艦隊司令長官などを歴任。謹厳実直で部下からの信頼が篤かったが終戦直前には[[回天|回天特別攻撃隊]]の事で悩んでいたという。
 
戦後「[[ポンティアナック事件]]」(ポンティアナ事件)の容疑者として戦犯指名され、[[オランダ]]軍の報復裁判により死刑判決を受け公開銃殺刑にされた。反対尋問も証人喚問も許されない3時間の即決裁判であり冤罪であるのは明白であった。
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