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Mariemon (会話 | 投稿記録)
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|廟=蓮如上人廟所(京都市山科区)、<br />[[大谷祖廟]] (真宗大谷派)他
}}
'''蓮如'''<ref name="nitenshinnyou"/>(れんにょ)は、[[室町時代]]の[[浄土真宗]]の[[僧]]。[[本願寺]]第8世。本願寺[[中興の祖]]。同宗旨<ref>[[浄土真宗#真宗十派(真宗教団連合)|真宗十派]]の内、本願寺派・大谷派のみ蓮如を歴代とする。</ref>では、「蓮如上人」と尊称される。[[明治]]15年([[1882年]])に、[[明治天皇]]より「'''慧燈大師'''」の[[諡|諡号]]を追贈されている。しばしば'''本願寺蓮如'''と呼ばれる。
 
[[親鸞]]の直系とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、[[青蓮院]]の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に[[真宗佛光寺派|佛光寺教団]]の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団([[浄土真宗本願寺派|本願寺派]]・[[真宗大谷派|大谷派]])の礎を築いた。
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<span style="font-size:90%;">年齢は、[[数え年]]。日付は、『'''[[御文]]'''』(『'''御文章'''』)などの文献との整合を保つ為、[[旧暦]](宣明暦)表示(生歿年月日を除く)とした。</span>
 
[[応永]]22年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]](1415年4月13日<ref name="guregorioreki"/>)、京都東山の本願寺(現、崇泰院(そうたいいん)〔知恩院塔頭〕付近)にて、本願寺第7世・[[存如]]の長子として生まれる。母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが、詳細は不明。幼名は「'''布袋丸'''」。
 
応永27年(1420([[1420]])、蓮如6歳。存如が本妻を迎えるにあたって、生母は本願寺を退出しその後行方知れず。蓮如幼年期の本願寺は、[[佛光寺]]の隆盛に比し衰退の極にあり、参拝者(後に蓮如の支援者となった[[堅田]][[本福寺 (大津市)|本福寺]]の[[法住]]ら)が余りにも寂れた本願寺の有様を見て呆れ、仏光寺へ参拝したほどであった。
 
[[永享]]3年(1431([[1431]] 17歳。[[青蓮院]]で得度し、[[中納言]][[広橋兼郷]]の猶子となる。名を「'''中納言兼壽'''」と改める。その後、本願寺と姻戚関係にあった[[興福寺]][[大乗院]][[経覚]](母方が[[大谷家]](本願寺)の出とされ、父・存如の従兄弟と推定されている)について修学。父を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。永享6年([[1434年]])[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]の識語をもつ『'''浄土文類聚鈔'''』が、蓮如の書写になる現存最古のもの
 
[[嘉吉]]2([[1442年]])、第1子(長男)[[順如]]誕生。[[文安]]4年([[1447年]])、存如とともに関東を訪ねる。[[宝徳]]元年([[1449年]])、存如と北国へ布教。[[享徳]]4年([[1455年]])[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]、最初の夫人、如了尼示寂。[[長禄]]元年([[1457年]])[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]、父も示寂、本願寺第8代を継職。留主職継職にあたり、異母弟・[[応玄]](蓮照)を擁立する動きもあったが、叔父宣祐([[如乗]](宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。なお、歴代住職が後継者にあてる[[譲状]]の存如筆が現存しないことから、この裁定は宣祐如乗によるクーデターともされる。この裁定に対して、応玄と継母は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられる。
その後、本願寺と姻戚関係にあった[[興福寺]][[大乗院]][[経覚]](母方が[[大谷家]](本願寺)の出とされ、父・存如の従兄弟と推定されている)について修学。父存如を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。永享6年(1434年)[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]の識語をもつ『'''浄土文類聚鈔'''』が、蓮如の書写になる現存最古のもの。
 
このころの本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落していた。青蓮院の本寺であった[[比叡山]][[延暦寺]]からは、宗旨についても弾圧がくわえられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。
[[文安]]4年(1447年)、存如とともに関東を訪ねる。
 
長禄2年([[1458年]])[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]、第8子(5男)[[実如]]誕生([[寛正]]5年([[1464年]])とも)。[[寛正]]6年([[1465年]])[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]、 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定、翌[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]、同寺西塔の衆徒は[[大谷廟堂|大谷本願寺]]を破却する。[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]、再度これを破却。蓮如は祖像を奉じて近江の[[金森 (守山市)|金森]]、[[堅田]]、[[大津]]を転々とする。更に蓮如と親友の間柄であった[[専修寺]]([[真宗高田派]])の[[真慧]]が、自己の末寺を本願寺に引き抜かれた事に抗議して絶縁した([[寛正の法難]])。[[文正]]2年([[1467年]])3月、延暦寺と和議。条件として、蓮如の隠居と長男・順如の廃嫡が盛り込まれた。廃嫡後も、有能な順如は蓮如を助けて行動する。
[[宝徳]]元年(1449年)、存如と北国へ布教。
 
[[応仁]]2年([[1468年]])、北国、東国の親鸞遺跡を訪ねる。応仁3年(1469([[1469]])、[[園城寺|三井寺]]の庇護のもとに大津南別所に[[顕証寺]]を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。[[文明 (日本)|文明]]2年([[1470年]])[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]、第二夫人蓮祐尼示寂
[[享徳]]4年(1455年)[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]、最初の夫人、如了尼示寂。
 
文明3([[1471年]])4月上旬、越前吉崎に赴く。[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]、同所に[[吉崎御坊]]を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣するための宿泊所)が立ち並び、寺内町が形成されていった。信者は奥羽からも集まった。
[[長禄]]元年(1457年)[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]、第七世存如示寂。
 
同年、本願寺第八代を継職。留主職継職にあたり、異母弟・応玄(蓮照)を擁立する動きもあったが、叔父宣祐(如乗)の主張により蓮如の就任裁定となった。なお、歴代住職が後継者にあてる[[譲状]]の存如筆が現存しないことから、この裁定は宣祐によるクーデターともされる。この裁定に対して、応玄と継母は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられる。
 
このころの本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落していた。青蓮院の本寺であった[[比叡山延暦寺]]からは、宗旨についても弾圧がくわえられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。
 
[[長禄]]2年(1458年)[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]、第八子(五男)[[実如]]誕生。([[寛正]]5年(1464年)とも)
 
寛正6年(1465年)[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]、 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定する。
 
同年[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]、同寺西塔の衆徒は[[本願寺|大谷本願寺]]を破却する。
 
同年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]、再度これを破却。蓮如は祖像を奉じて近江の[[金森 (守山市)|金森]]、[[堅田]]、[[大津]]を転々とする。更に蓮如と親友の間柄であった[[専修寺]]([[真宗高田派]])の[[真慧]]が、自己の末寺を本願寺に引き抜かれた事に抗議して絶縁した([[寛正の法難]])。
 
[[文正]]2年(1467年)3月、延暦寺と和議。条件として、蓮如の隠居と長男・[[順如]]の廃嫡が盛り込まれた。廃嫡後も、有能な[[順如]]は蓮如を助けて行動する。
 
[[応仁]]2年(1468年)、北国、東国の親鸞遺跡を訪ねる。
 
応仁3年(1469年)、[[園城寺|三井寺]]の庇護のもとに大津南別所に[[顕証寺]]を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。
 
[[文明 (日本)|文明]]2年(1470年)[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]、第二夫人、蓮祐尼示寂。
 
文明3年(1471年)4月上旬、越前吉崎に赴く。
 
同年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]、同所に[[吉崎御坊]]を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣するための宿泊所)が立ち並び、寺内町が形成されていった。信者は、奥羽からも集まった。
 
[[ファイル:Tyoufukuj3.jpg|thumb|長福寺の境内にたつ蓮如上人の銅像]]
文明6年(1474([[1474]])、[[加賀国]][[守護]][[富樫氏]]の内紛で[[富樫政親]]から支援の依頼を受ける。蓮如は対立する[[富樫幸千代]]が真宗高田派と組んだ事を知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢を生じた。更に蓮如の配下だった[[下間蓮崇]]が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(ただし、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては意見が分かれている)。
 
文明7年(1475([[1475]])[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]、吉崎を退去。一揆を扇動した下間蓮崇を破門。小浜、丹波、摂津を経て河内出口に居を定めた。文明10年([[1478年]])[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]、山科に坊舎の造営を開始。[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]、第三夫人如勝尼示寂。文明13年([[1481年]])、[[真宗佛光寺派]]を継ぐ筈だった[[蓮教|経豪]]が蓮如に帰順。蓮如から蓮教という名を与えられ、改名する。文明15年([[1483年]])[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]、[[山科本願寺]]の落成。長男順如示寂
 
文明18年(1486([[1486]])、紀伊に下向。のちの[[鷺森別院]]の基礎ができる。同年、第四夫人宗如尼示寂
文明10年(1478年)[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]、山科に坊舎の造営を開始。
 
同年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]]、第三夫人、如勝尼示寂。
 
文明15年(1483年)[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]、[[山科本願寺]]の落成。長男[[順如]]示寂。
 
文明18年(1486年)、紀伊に下向。のちの[[鷺森別院]]の基礎ができる。
 
同年、第四夫人、宗如尼示寂。
 
[[ファイル:蓮如2857.JPG|thumb|180px|蓮如上人御廟 出口御坊 大阪府枚方市]]
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[[ファイル:蓮如上人3405.JPG|thumb|180px|蓮如上人落歯懐紙・出口にて7月1日に日ごろいたみぬるむし歯のおちけるは 夏はきのふけふ秋きりの一葉おちて身にしみてしる 出口御坊 大阪府枚方市]]
[[ファイル:蓮如上人3427.JPG|thumb|180px|親鸞聖人蓮如上人御田地 蓮如上人御腰掛石 出口御坊 大阪府枚方市]]
{{Indent|[[長享]]2年([[1488年]])5月、加賀の一向一揆。}}
{{Indent|同年6月9日、加賀の宗徒、守護の富樫政親を高尾城にて包囲し、自刃に追い込む。}}
同年7月、蓮如は消息<ref>消息…「御叱りの御書」、「騒動しずめの御書」と呼ばれる。([[#参考文献|参考文献]]『蓮如上人の生涯と教え』57~58頁)</ref>を送って一揆を諌めた。
 
[[延徳]]元年(1489年)、75歳。寺務を五男の[[実如]]に譲る。山科南殿に隠居して、「信證院」と号する。
 
[[明応]]5年(1496年)9月、大坂石山の地に石山御坊を建立し、居所とした。後の[[石山本願寺]]。
 
明応8年(1499年)[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]、死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。
 
[[長享]]2年([[1488年]])5月、[[加賀一向一揆]]が国人層と結びついて決起。同年6月9日、加賀の宗徒、守護富樫政親を高尾城にて包囲し、自刃に追い込む。7月、蓮如は消息<ref>消息…「御叱りの御書」、「騒動しずめの御書」と呼ばれる。([[#参考文献|参考文献]]『蓮如上人の生涯と教え』57~58頁)</ref>を送って一揆を諌めた。[[延徳]]元年([[1489年]])、75歳。寺務を実如に譲り、山科南殿に隠居して、「信證院」と号する。[[明応]]5年([[1496年]])9月、大坂石山の地に石山御坊を建立し、居所とした(後の[[石山本願寺]])。
同年[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]、[[下間蓮崇]]を許す。
 
明応8年(1499年)[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]、死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。同年[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]、[[下間蓮崇]]を許す。同年3月25日(1499年5月14日<ref name="guregorioreki"/>)、山科本願寺において85歳で示寂。
 
妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻する。子は、男子13人・女子14人の計27子を儲ける。死の直前まで公私共に多忙を極めた。
 
== 布教 ==
蓮如の布教は、教義を消息(手紙)の形で分かりやすく説いた『'''御文'''』(『'''御文章'''』)<ref>『御文』という呼び方は、[[真宗大谷派|大谷派]]にて用いられ、『御文章』という呼び方は[[浄土真宗本願寺派|本願寺派]]にて用いられる。</ref>を中心に行なわれた。のちに蓮如の孫、[[円如]]がこれを収集して五帖80通(『'''五帖御文'''』)にまとめた。これに含まれない消息は『帖外御文』と言われ、倍くらいの数の消息が数えられている。
 
文明5年(1473年)3月、吉崎で親鸞の「'''[[正信念仏偈]]'''」(「'''正信偈'''」)「'''[[三帖和讃]]'''」を開版し、門徒たちの朝夕の勤行に用いるよう制定した。
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その他の著作に『'''正信偈大意'''』、『正信偈証註釈』、信仰生活の規範を示した「改悔文」(「領解文」とも)などがある。
 
また蓮如の死後弟子たち蓮如の言行録を写し継いだ書物として『'''蓮如上人御一代記聞書'''』(『蓮如上人御一代聞書』)全316箇条が残されている。
 
== 妻子 ==
* 第1夫人:[[如了]](1424-1455) 1455年) - [[伊勢貞房]]の娘
** 1男:[[順如]](1442-1483) 1483年) - [[河内国|河内]]出口[[光善寺]]開基
** 1女:如慶(1446-1471) 1471年) - 京都常楽寺[[蓮覚光信]][[室]]
** 2男:[[蓮乗]](1446-1504) 1504年) - 兼鎮、[[越中]][[真宗大谷派井波別院瑞泉寺|井波瑞泉寺]]・[[加賀国|加賀]]若松本泉寺
** 2女:見玉(1448-1472) 1472年) - 出家・京都摂受庵見秀尼弟子
** 3男:[[蓮綱]](1450-1531) 1531年) - 兼祐、加賀波佐谷松岡寺開基、鮎蔵坊開基
** 3女:寿尊(1453-1516) 1516年) - 出家・京都摂受庵見秀尼弟子、後に[[摂津国|摂津]]富田教行寺
** 4男:[[蓮誓]](1455-1521) 1521年) - 加賀滝野坊、九谷坊、山田光教寺、越中中田坊開基
* 第2夫人:[[蓮祐]](1438-1470) 1470年) - 伊勢貞房の娘・如了<span style="font-size:80%;">(第1夫人)</span>妹
** 5男:'''[[実如]]'''(1458-1525) 1525年) - '''本願寺第九世'''
** 4女:妙宗(1459-1537) 1537年) - 出家・知恩院椿性禅尼弟子、左京義政[[妾]]
** 5女:妙意(1460-1471) 1471年) - 早逝
** 6女:如空(1462-1492) 1492年) - [[越前国|越前]]大谷興行寺[[蓮助兼孝]]室
** 7女:祐心(1463-1490) 1490年) - [[白川資氏王]]室
** 6男:[[蓮淳]](1464-1550) 1550年) - [[近江国|近江]]大津顕証寺、河内久宝寺[[顕証寺 (八尾市)|顕証寺]]・[[伊勢国|伊勢]]長島[[願証寺]]開基
** 8女:了忍(1466-1472) 1472年) - 早逝
** 9女:了如(1467-1541) 1541年) - 越中井波瑞泉寺[[蓮欽]]妾
** 7男:[[蓮悟]](1468-1543) 1543年) - 加賀崎田坊、中頭坊、清沢坊、若松本泉寺創建
** 10女:祐心(1469-1540) 1540年) - [[中山宣親]]室、第11世[[顕如]]の祖母
* 第3夫人:[[如勝]](1448-1478) 1478年)
** 11女:妙勝(1477-1500) 1500年) - [[山城国|山城]]勝林坊[[勝恵|勝林坊勝恵]]妾
* 第4夫人:[[宗如]](? -1484) 1484年)[[姉小路基綱]]の娘
** 12女:蓮周(1482-1503) 1503年) - 越前超勝寺[[蓮超]]室
** 8男:[[蓮芸]](1484-1523) 1523年) - 摂津富田[[教行寺]]・摂津名塩教行寺
* 第5夫人:[[蓮能]](1465-1518) 1518年) - [[畠山政栄]]の娘
** 13女:妙祐(1487-1512) 1512年) - 山城勝林坊勝恵室
** 9男:[[実賢]](1490-1523) 1523年) - 近江堅田称徳寺
** 10男:[[実悟]](1492-1583) 1583年) - 河内古橋願得寺
** 11男:[[実順]](1494-1518) 1518年) - 河内久宝寺[[顕証寺 (八尾市)|西証寺]]
** 12男:[[実孝]](1495-1553) 1553年) - [[大和国|大和]]飯貝[[本善寺 (吉野町)|本善寺]]
** 14女:妙宗(1497-1518) 1518年) - 京都常楽寺[[実乗光恵]]室
** 13男:[[実従]](1498-1546) 1546年) - 河内枚方順興寺
 
== 脚注 ==
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=== 関連文献 ===
*{{Cite book|和書
|author=[[大谷暢順]]
|year=1989
|title=蓮如上人全集 言行篇
204 ⟶ 163行目:
}}
*{{Cite book|和書
|author=大谷暢順
|year=1998〜2001年
|title=蓮如上人全集
|publisher=[[河出書房新社]]