「筆記体」の版間の差分

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[[17世紀]]前半の[[マサチューセッツ州]][[プリマス植民地]]の知事ウィリアム・ブラッドフォードの手書き文字ではほとんどの文字は分離されていたが、少数の文字は筆記体のように連結されていた。その1世紀半後にあたる[[18世紀]]後半には、この状況は逆転していた。[[トーマス・ジェファーソン]]による[[アメリカ独立宣言]]の草稿ではすべてではないにせよ、ほとんどの文字は連結されていた。後日職人により清書された独立宣言は、完全な筆記体で記述されていた。その87年後の[[19世紀]]半ばには、[[エイブラハム・リンカーン]]が今日とほとんどと変わらない筆記体で[[ゲティスバーグ演説]]の草稿を書き上げていた。
 
タイプライター発明以前の18世紀および19世紀において、公的な通信文は筆記体により記述されていた。これらの筆記体は見栄えの良さを意味して「フェア・ハンド(fair hand)(fair hand)」と呼ばれており、会社内の全事務員は正確に同じ筆跡で書く事を要求されていた。初期の[[郵便]]においては手紙は筆記体で書かれ、一枚の便箋により多くの文章を書き込むために文章は本来の行から直角に折れ曲がった行にも書き続けられた。ブロック体でこの書き方を行う事はできなかった。
 
女性による手書き文字は男性による手書き文字とは明らかに異なっていたが、普遍的な手書き文字の形式には急速な変化は起こらなかった。19世紀半ばには、筆記体を教わっていない児童は比較的少数であり、それは重要な技術であったために、現代よりも習得に重点を置くことが可能だった。<!--当時は教室のあらゆることに効率を追い求めるというようなことがなかったからだ。-->[[20世紀]]半ばに達した時には、僅かな簡略化しか行われていなかった。時間割の一例を挙げれば、アメリカ合衆国において筆記体が教えられようになるのは通常2年生か3年生(7~9(7 - 9歳)の学童に対してであった。
 
[[1960年代]]以降、筆記体の教育は必要以上に難解であると考えられるようになった。単純に文字を傾斜させた[[イタリック体]]はより平易なものであり、伝統的な筆記体を不要にするものであるとの議論が巻き起こった。また、[[書体]]の種類が有用性を持つようになったことで手書きの文字が[[著作権]]を形成するようになった。これにより、20世紀後半にはD'NealianやZaner-Bloserなどの多様な新しい筆記体が現れた。選びうる限りの標準化されていない手書き文字が、異なる英語圏の国家の異なる学校制度の下で用いられるようになった。
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[[大文字]]は筆記体特有の字体を使用するが、いくつかの筆記体では活字体に関連付けられた字体を使用している。
 
伝統的に、一つの単語の中にある連結された全ての筆線は「'''t'''の横棒を引き、'''i'''の点を打つ(cross (cross one's t's and dot one's i's)s)」前に完成させなければならない。このフレーズは、作品を仕上げる事を表現する英語の慣用句となっている。ほとんどの筆記体の形式では、小文字の'''x'''と大文字の'''X'''の交差線や'''j'''の点も同様の規則に従って書く。
 
18世紀から19世紀半ばまでの手書きの筆記体は18世紀の版画の見出し文字に使用されていた、より美術的な筆記体[[カッパープレート]](Copperplate) (Copperplate) とは異なっていた。カッパープレートでは小文字体の[[アセンダ]]や[[ディセンダ]]が太い実線で書かれるのに対し、筆記体では細い輪で書かれる。これは、事務で使用するインクを節約するためであったと考えられる。
 
== 弊害 ==