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'''朽木 宣綱'''(くつき のぶつな、[[天正]]10年([[1582年]]) - [[寛文]]2年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]([[1662年]][[6月16日]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]。[[朽木元綱]]の長男。[[朽木友綱|友綱]]、[[朽木稙綱_(土浦藩主)|稙綱]]の兄。官位は従五位下兵部少輔。号は立斎。[[京極高吉]]の娘のマグダレナ(洗礼名)を娶るが、[[慶長]]11年([[1606年]])3月20日に若死にする。子に[[朽木智綱|智綱]]、[[京極高通 (丹後国峰山藩主)|京極高通]]、[[朽木良綱|良綱]]、朽木元綱(父と同名)、[[大島義唯]]室、[[岡本介球]]室、[[川口宗次]]室、[[高麗道覚]]室。
 
はじめ[[豊臣氏]]、次いで[[徳川氏]]に仕えた。 元和2年(1616([[1616]])の徳川家康の太政大臣任官の儀において、配膳役を務める。[[江戸幕府]]のもとでは6,470石を領する[[旗本]]の一人として仕えた。旗本とはいえ防衛の要地を所領に持ち、近江源氏の名家でもあったので、大名並の待遇である[[交代寄合]]に列せられた。だが、後に弟の[[朽木稙綱_(土浦藩主)|朽木稙綱]]が[[大名]]に取り立てられたために宗家としての地位は弱まった。また、妻の名字である京極を称した息子の1[[京極高通 (丹後国峰山藩主)|高通]]は、母の兄弟に当たる[[京極高知]]の婿養子となり、[[丹後国|丹後]][[峰山藩]]1万3,0003000石の大名となる。

寛文2年(1662年)5月1日、[[近江・山城地震|寛文地震]]に巻き込まれ近江国朽木にて死去した。[[享年]]81、法号は崇玄。
 
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