「小川祐忠」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
2行目:
 
== 経歴 ==
[[小川氏]]は近江の土豪であり、[[宇多源氏]]あるいは藤原姓[[下河辺氏]]流と言われる。[[応仁の乱]]後南[[近江国|近江]]の[[六角氏]]と[[京極氏]]の対立の中、六角氏の重臣[[小川左近太夫]]が[[佐和山城]]主として置かれたことに始まる。六角氏の衰退した戦国後期には佐和山城を追われ、祐忠の頃には小川城を居城として[[浅井氏]]の家臣となっていた。
 
=== 信長家臣時代 ===
[[元亀]]2年([[1571年]])8月[[織田信長]]と戦うが、同月下旬佐久間右衛門、中川八郎右衛門、[[柴田勝家]]、[[丹羽長秀]]率いる軍勢の志村城攻略を知ると人質7人を差し出して降伏。[[吉田重勝]]、池田伊予守、後藤喜三郎、多賀新左衛門、阿閉淡路守父子、久徳六左衛門らとともに赦されて(「[[信長公記]]」)信長の旗本に取り立てられ、土佐守の官位を賜った。息子も右馬允に任じられた。天正7年([[1579年]])、[[安土城]]の築城に際して[[堀部佐内]]、[[青山助一]]とともに瓦奉行を命じられている(「安土日記」)。このころか、信長から茶会を免許されている。
 
=== 本能寺の変賤ヶ岳の戦い ===
[[天正]]10年([[1582年]])[[本能寺の変]]が起こると[[明智光秀]]の傘下に入り山崎へも出陣したが、敗北し[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に降伏する。清洲会議で北近江が[[柴田勝家]]の領土となって後はその傘下となり勝家の養子[[柴田勝豊]]の家老として仕える。[[賤ヶ岳の戦い]]においては[[大谷吉継]]の調略を受け勝豊が秀吉に寝返ったため秀吉側として戦う。
 
=== 秀吉家臣時代 ===
勝豊没後は秀吉直臣となる。[[小牧・長久手の戦い]]には兵250を率いて参陣、[[豊臣秀次|羽柴秀次]]の中入りにも中軍の一隊の将として加わった。天正18年([[1590年]])に[[小田原征伐]]にも参陣し武功を立て、正式に従五位下土佐守に叙任された。
 
文禄元年([[1592年]])[[文禄の役]]では名護屋留守陣の将の1人として肥前名護屋城に在陣する。同2年には渡海し、金海の戦いで[[伊達政宗]]とともに[[浅野長政]]を救援する功を立てた。[[慶長]]3年([[1598年]])朝鮮安骨浦で討死した[[池田景雄]]の後を受けて[[伊予国|伊予]]今治7万石を与えられ、[[国分城 (伊予国)|国分城]](国分山城)を居城とした。伊予国分寺には供養塔が残る。同年の[[醍醐の花見]]においては三番茶屋を立て、茶室内には[[狩野山楽]]や[[長谷川宗仁]]ら当代一流の画師に馬、鷹などを描いた襖絵を描かせた。[[太閤検地]]にも関わり、[[慶長]]3年7月24日に[[西笑承兌]]から越前の検地が完了し総奉行の長束政家以下の奉行衆が上洛した事に関する書状(「西笑和尚文案」)を受け取っている。
 
=== 関ヶ原の戦い ===
文禄元年([[1592年]])[[文禄の役]]では名護屋留守陣の将の一人として肥前名護屋城に在陣する。同2年には渡海し、金海の戦いで[[伊達政宗]]とともに[[浅野長政]]を救援する功を立てた。[[慶長]]3年([[1598年]])朝鮮安骨浦で討死した[[池田景雄]]の後を受けて[[伊予国|伊予]]今治7万石を与えられ、[[国分城 (伊予国)|国分城]](国分山城)を居城とした。伊予国分寺には供養塔が残る。同年の[[醍醐の花見]]においては三番茶屋を立て、茶室内には[[狩野山楽]]や[[長谷川宗仁]]ら当代一流の画師に馬、鷹などを描いた襖絵を描かせた。[[太閤検地]]にも関わり、[[慶長]]3年7月24日に[[西笑承兌]]から越前の検地が完了し総奉行の長束政家以下の奉行衆が上洛した事に関する書状(「西笑和尚文案」)を受け取っている。
慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では当初、西軍に与して北国口守備にあたるが、本戦では[[小早川秀秋]]の寝返りに呼応して[[脇坂安治]]、[[朽木元綱]]、[[赤座直保]]と共に東軍に寝返り、家臣[[小川甚助]]の郎党[[樫井正信]]が[[平塚為広]]を討ち取る(「小川系図」)など武功を上げる。戦後、佐和山城攻略戦にも参加した。
=== 関ヶ原 ===
しかし、通款を明らかにしなかったことを咎められ、戦後改易となる。改易の理由には領内悪政、嫡男とされる[[小川祐滋]]が[[石田三成]]と入魂であったなどの理由も伝わる。改易後は京に隠棲し(帰農したとの説もある)程無く没したとされる(『武徳安眠記』)。
慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では当初、西軍に与して北国口守備にあたるが、本戦では[[小早川秀秋]]の寝返りに呼応して東軍に寝返り、家臣[[小川甚助]]の郎党[[樫井正信]]が[[平塚為広]]を討ち取る(「小川系図」)など武功を上げる。戦後、佐和山城攻略戦にも参加した。
しかし、通款を明らかにしなかったことを咎められ、戦後改易となる。改易の理由には領内悪政、嫡男とされる[[小川祐滋]]が[[石田三成]]と入魂であったなどの理由も伝わる。改易後は京に隠棲し、(帰農したとの説もある)程無く没したとされる(『武徳安眠記』)。
 
== 子孫 ==
祐忠の子・祐滋(別の子で千橘とする説もある)は改易後、京に出て萬屋の屋号を用い両替商となり成功を収め、寛文年間二条陣屋を預けられるほどの豪商となっている。
また別系と思われる曾孫・俊広が鷹匠として出仕、その2代後には時代劇などで知られる[[小石川養生所]]の開祖・[[小川笙船]]を輩出している。この家系は幕末まで代々養生所肝煎を務めた。
小川家には医術の道に進む者が多く、藤沢宿でも別家が医師となり郷土史に名を残している。