「中江種造」の版間の差分

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その後、裸一貫で上京、1875年(明治8年)から1884年(同17年)まで、[[古河財閥|古河市兵衛]]の顧問技師として、栃木県・[[足尾銅山]]や新潟県・[[草倉銅山]]の経営に当たり、「[[古河鉱業]]」ひいては「[[古河財閥]]」(現在のの[[古河グループ]])を大きく成長させた。
 
1884年(明治17年)、顧問役をつとめた古河家を辞し、鉱業家として独立自営する。岡山県・[[国盛鉱山]]など各地の鉱山を買収、巨万の富を成し「鉱山王」とも呼ばれるようになる。鉱業のみならず山林業にも手を染め、500万本もの[[植林]]を行い「山林王」の名もしいままにしたという。郷里・[[豊岡市|豊岡]]での産業振興や人材育成にも力を入れ、銀行・製糸工場・煉瓦工場などの経営にも関わり、1906年(明治39年)育英基金「中江済学会」を創設し、学者・弁護士・医師など多くの人材を育成した。
 
1925年(大正14年)3月、町議会は中江種造の功績を称え、[[寿ロータリー (豊岡市)|寿公園]]に銅像を建設した。