「アイポッパー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
N.Dash (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
22行目:
 
== 戦績 ==
体質の弱さからデビューは遅れ、デビューを果たしたのは[[2003年]]6月の函館・3歳未勝利であった。初戦は出遅れながらも2着に入り、2戦目で初勝利を挙げた。続く3歳上500万下2着の後は芝に転向。4戦目の阪神・3歳上500万下2着以降は芝のレースを使い続けている。同年10月、5戦目の京都・3歳上500万下で2勝目を挙げた。1000万下昇級初戦の八瀬特別でナムラサンクスの2着に敗れたが、続く中京・天竜川特別ではスタートで出遅れをものともせずたが4馬身差で3勝目を挙げた。
 
[[2004年]]、初の関東遠征となった迎春ステークスでは一番人気に支持されるも4着に敗れた(これまでのレースでは常に[[連対]]を果たしており、8戦目で初めて連対を外したことになる)。その後短期放牧を経て、5月・烏丸ステークスを制してオープン入りした。
28行目:
オープン入り初戦の[[目黒記念]]では1番人気に押されたが、5着に敗れた。その後は北海道[[ノーザンファーム]]へリフレッシュ放牧に出された。10月、準オープンに降級し比叡ステークスで復帰するもメイショウカチドキの2着に敗れた。次戦の古都ステークスで翌年の[[天皇賞#天皇賞(秋)|天皇賞(秋)]]を制することになる[[ヘヴンリーロマンス]]やサクラセンチュリー、エアセレソンら後の重賞勝ち馬を抑えて勝利、再びオープン入りを果たした。
 
[[2005年]]、[[万葉ステークス]]で[[ファストタテヤマ]]やチャクラを退けて2連勝し、長距離戦線における常連的存在として定着した。2度目の重賞挑戦となった[[阪神大賞典]]では[[マイソールサウンド]]の2着に終わとなたが、[[リンカーン (競走馬)|リンカーン]]に先着した。そして[[天皇賞#天皇賞(春)|天皇賞(春)]]で初めてGIに挑戦し、有力馬がこぞって崩れを渋太く粘り抜いて、中団から進出するレースで3着に入った。
 
秋には日本馬として初めて[[オーストラリア]]に遠征を行った。遠征初戦の[[コーフィールドカップ]]ではその年の[[シンガポール航空インターナショナルカップ]]優勝馬マミファイを直線競り落とすも、ゴール寸前でレイリングスに差し切られ2着に終わった。この惜敗で現地の評価の高まったアイポッパーであったが、続く[[メルボルンカップ]]では[[マカイビーディーヴァ]]のメルボルンカップ3連覇の前に12着と惨敗した。帰国後は予備登録のあった[[香港ヴァーズ]]を回避して全休、来シーズンに備えることになった。
 
[[2006年]]、阪神大賞典、天皇賞(春)と長距離路線を歩んでいくが[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]の壁にはばまれ好成績を残すことはできず、それぞれ6着、4着に終わった。続く目黒記念ではトップハンデを背負いながら[[ポップロック (競走馬)|ポップロック]]の僅差2着に食い込むが、[[宝塚記念]]では苦手の道悪もあってシンガリ負けを喫した。
 
再びしばしの休養のあと、[[京都大賞典]]から始動するが6着に敗れた。しかし、[[アルゼンチン共和国杯]]で2着に入ると[[ステイヤーズステークス]]では[[オリビエ・ペリエ]]の騎乗で1.7倍の人気にこたえて勝利、重賞挑戦12戦目で初の重賞勝利を挙げた。その後[[有馬記念]]出走が表明されるが裂蹄のため回避、翌年の天皇賞を目標に調整されることになった。
 
[[2007年]]の阪神大賞典では、[[武豊]]を背に先行策からゴール前で1番人気の[[ドリームパスポート]]を抑えて優勝し重賞2連勝を果たした。続く天皇賞(春)では鞍上に[[安藤勝己]]を迎え(武は[[アドマイヤムーン]]の香港遠征の為不在)、二冠馬[[メイショウサムソン]]や前年のメルボルンカップ勝ち馬[[デルタブルース]]らを抑え1番人気に押された。しかし、スタートで出負けもあってし、メイショウサムソンの4着に終わった。レース後に左第1指骨剥離骨折が判明し、休養を余儀なくされた。11月に栗東に帰厩したものの[[馬インフルエンザ]]に感染する不運も重なり、結局2007年後半は全休することになった。
 
[[2008年]]の[[京都記念]]で復帰するが最下位16着に終わった。続く阪神大賞典では一変し、[[アドマイヤジュピタ]]の2着に入った。4度目の挑戦となった天皇賞(春)では11着と惨敗したものの、続く目黒記念はトップハンデを背負いながら[[ホクトスルタン]]の5着に健闘した。夏場はノーザンファームでリフレッシュ放牧、[[9月16日]]に栗東に帰厩した。迎えた秋初戦、京都大賞典では内からしぶとく伸びて3着に入った。その後[[香港ヴァーズ]]、[[香港カップ]]の予備登録を行ったが左後脚の裂蹄が悪化したことから回避した。左後脚の裂蹄は回復したものの負担がかかっていた両前脚の蹄を痛め、さらにそれを庇って右後脚の蹄を痛めることとなった。その後療養のため[[山元トレーニングセンター]]へ放牧に出されたが右後脚は重度の[[蹄葉炎]]を発症しており、さらに左後脚にも蹄葉炎を発症し立不能の状態に陥った<ref>『[[大阪スポーツ]]』2008年12月7日 16面</ref>。引退が決まった矢先の[[11月26日]]、回復の見込みがないと診断され、安楽死となった<ref>http://keiba.radionikkei.jp/keiba/news/entry-159506.html</ref>。それに伴い同日付で競走馬登録を抹消された。
 
== 競走成績 ==
618行目:
 
== 特徴 ==
同じサッカーボーイ産駒である[[ナリタトップロード]]や[[ヒシミラクル]]同様、長距離戦で力を発揮する典型的なステイヤーであり芝のレースを使い始めて以降は2004年古都Sと2006年宝塚記念、2008年京都記念を除いて芝2400m以上のレースを使われていた。長距離戦線の最高峰である天皇賞(春)に2005年から2008年まで4年連続で参戦しているようにおり、05年以降は長距離重賞の常連として活躍していた。
 
2007年阪神大賞典後に騎乗した武豊が「非常に乗りやすい馬」と述べたように折り合いの不安がなく、最速上がり3Fを国内29戦中12戦で記録し、ある程度の決めの意のままに動ける賢さを持っていた一方で重賞で度々惜敗しているように前を捉えきれない詰めの甘さも併せ持っていた(最速上がり3Fを国内29戦中12回で記録しているようにある程度以上の決め手は持っていた)
 
道悪を極端に苦手にしており、大雨の中行われた2006年宝塚記念や散水が行われた2006年メルボルンカップで惨敗してしまったように、道悪を極端に苦手にしてい
 
== 蹄の弱さ ==