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その後、守護の職務内容が次第に明確化されていき、1232年(貞永1)に制定された[[御成敗式目]]において、守護の職掌は、軍事・警察的な職務である[[大犯三ヶ条]]の検断(御家人の義務である[[鎌倉]]・[[京都]]での[[大番役]]の催促、[[謀反]]人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)と大番役の指揮監督に限定され、[[国司]]の職権である[[行政]]への関与や[[国衙領]]の支配を禁じられた。しかし、守護が国内の地頭や在庁官人を[[被官]](家臣)にしようとする動き(被官化)は存在しており、こうした守護による在地武士の被官化は、次の室町時代に一層進展していくこととなる。
 
鎌倉中期以降は、[[北条氏]]一門による守護職の独占化が進んだ。これは、[[北条時頼]]の頃から北条本家([[得宗]])による政治の専制化、すなわち[[得宗専制]]が確立していったことに伴うもので、北条一門の守護国は、鎌倉初期の[[1200年]]頃に2国(他氏36国、守護不設置4国<ref>山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、和泉(後鳥羽上皇支配)、越前、紀伊(後鳥羽上皇支配)</ref>)、[[1250年]]頃に17国(他氏24国、不設置5国<ref>山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、相模(侍所・政所管掌)、</ref>)、[[1285年]]頃に33国(他氏18国、不設置5国<ref>山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、摂津(六波羅探題)、丹波(六波羅探題)、肥前(鎮西探題兼補)</ref>)、鎌倉最末期の[[1333年]]には38国(他氏15国、不設置5国<ref>山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、播磨(六波羅探題)、肥前(鎮西探題兼補)</ref>)と鎌倉中期を境に一気に増加していた。こうした事態は、他の[[御家人]]らの不満を潜在化させることとなり、鎌倉幕府滅亡の遠因となったと考えられている。
 
== 室町時代 ==