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中世後期から、マントの場所には漁港があった。しかし地名はむしろガロ=ロマン語から派生したと考えられる。[[カロリング朝]]後期には[[セーヌ川]]との往来を守るためこの地に[[モット・アンド・ベーリー]]が建てられ、ヴェクサン=ノルマン地方との国境となった。これを核として都市ができあがっていった。
 
イル・ド・フランスと[[ノルマンディー]]の国境となる重要な水路と土地であるため、マントは初め商業や貿易の土地として現われた。そして軍事的要衝でもあった。フランス領ヴェクサン地方への報復戦を企てたノルマンディー公ギヨーム(イングランド王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]])は、この戦いの際1087年にマントを襲って甚大な被害を与えた。10世紀以降、モット・アンド・ベーリー上に城が建った。ガンヌの塔と呼ばれた要塞群である。マントは侵入者に対する難攻不落の地であった。マントの丈夫さを証明するようにカペー朝の王たちはマントに住んだ。1110年、[[ルイ6世 (フランス王)|ルイ6世]]はマントに町の地位を与えている。1223年、[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ・オーギュスト]]はこの地で死去した。中世終わりには、原始的な要塞群は補強され、広く広がった壁で覆われた。マントのノートルダム教会は、1150年に工事が始まり、1510年に完成した。
 
セーヌ川に面し、ノルマンディーを見下ろすマントは、[[百年戦争]]ではイングランド王国や[[ナバラ王国|ナバラ王]][[カルロス2世 (ナバラ王)|カルロス2世]]が支配下に置いた。幾度も領主が変わったが、戦後平穏な時代を迎えた。[[ユグノー戦争]]ではカトリック同盟軍の支配下にあったが。やがてブルボン家のアンリ(のちの[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]])が本拠地を置き、パリ制圧まで陣を敷いていた。その後、アンリ4世はマントを定期的に訪れては愛妾[[ガブリエル・デストレ]]との時間をすごした。