「毛利綱元」の版間の差分

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笑太夫 (会話 | 投稿記録)
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==赤穂義士お預かり==
元禄15年([[1702年]])12月15日、[[赤穂義士]]47士が[[吉良義央|吉良上野介]]を討つと47士のうち[[岡島八十右衛門常樹]][[吉田沢右衛門兼貞]][[武林唯七隆重]][[倉橋伝助武幸]][[村松喜兵衛秀直]][[杉野十平]][[勝田新左衛門武尭]][[前原伊助宗房]][[間新六郎光風]][[小野寺幸右衛門秀富]]の10士のお預かりを命じられている。毛利家は浪士たちを通常の罪人として扱い、窓や戸には板を打ち付け、いわば閉じ込めたため、江戸の庶民からは批判された。その批判に閉口したのか、また細川家などが浪士を厚遇したのを見習い、待遇を改めたようである。
 
==墓所==