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2010年4月17日 (土) 15:41時点における版
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笑太夫
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2010年5月26日 (水) 15:36時点における版
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33行目:
==赤穂義士お預かり==
元禄15年([[1702年]])12月15日、[[赤穂義士]]
47士
が[[吉良義央
|吉良上野介
]]を討つと47士のうち[[岡島
八十右衛門
常樹
]]
・
、
[[吉田
沢右衛門
兼貞
]]
・
、
[[武林
唯七
隆重
]]
・
、
[[倉橋
伝助
武幸
]]
・
、
[[村松
喜兵衛
秀直
]]
・
、
[[杉野
十平
次
房
]]
・
、
[[勝田
新左衛門
武尭
]]
・
、
[[前原
伊助
宗房
]]
・
、
[[間
新六郎
光風
]]
・
、
[[小野寺
幸右衛門
秀富
]]の10士のお預かりを命じられている。毛利家は浪士たちを通常の罪人として扱い、窓や戸には板を打ち付け、いわば閉じ込めたため、江戸の庶民からは批判された。その批判に閉口したのか、また細川家などが浪士を厚遇したのを見習い、待遇を改めたようである。
==墓所==